十二月十四日(月)甲子(舊十一月四日 曇天

 

今朝、再び慈恵醫大靑戸病院に通院いたしました。咳と痰がおさまつてきたとはいへ、どうもだるくて完治したやうには思へないからでした。前回とは違ふ醫師でしたが、レントゲン寫眞も撮り、診ていただいた結果は肺の影も薄くなり、もうしばらく藥を飲んで安靜にしてゐればよくなるでせうといふことでした。また、腰の痛みは、一種の腰痛だといふのです。そんな覺えがないだけに、不安でしたが、貼り藥をいただいて歸つてきました。 

 

ところで、先日古本市で求めた和本をよく調べたら、なんと平田篤胤の著作であることが分かりました。『古今妖魅考』といふ題の本です(今日の寫眞)。二卷と三卷だけでしたが、それぞれ五〇〇圓だつたのは幸運でした。歸宅後〈日本の古本屋〉で調べたら、三軒の古書店から、三卷揃ひで出てゐて、最安値が一萬九千圓、最高値が二萬八千八百圓でしたからね。揃ひでなくてもどうせ短編集のやうな内容ですから、これは掘り出し物だつたと思ひました。 

もちろん、その思想や後代への影響を考へたら、好きになれない人物なんですが、一方で、異界、幽冥の世界等への造詣が深く、その點ではぼくも惹かれてゐるんです。 

でも、まづ、平田篤胤について調べてみました。それが、ネットもばかにならなくて、まじめな見解が示されてゐたので、そのまま寫します。だいぶ長いのですが、かういうふ機會をとらへて調べてみるのが、獨學の要件なのであります。ある「問ひ」に對する「ベストアンサー」です。まづ、問ひです。

 

賀茂真淵や本居宣長や平田篤胤の国学は幕末の吉田松陰の攘夷・討幕思想に影響を与えたのでしょうか?

 

以下、ベストアンサーに選ばれた回答です。

 

江戸時代の学問は、漢学と国学に大別されます。 

 漢学とは、四書五経など中国の古典研究です。これにたいして、国学は『万葉集』『古事記』『古今和歌集』といった日本の古典研究の学問でした。国学とは、もともとは現在でいうところの国文学のような学問だったのです。文学ですから、それを書いた人の心情が読み込まれています。そこから、国学は古代日本人の心情とはどういっったものであったか、日本人のオリジンとはなにかといった考察にもむかっていきました。しかし、契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長といった国学者たちは、あくまでも古典研究の範囲でとどまっていたのです。 

さて、本居宣長の死後、平田篤胤という人物が現われます。この人はちょっとイカレた人でした。本居宣長とはまったく面識はありませんでしたが、その弟子を名乗っていました。「本居宣長先生が夢に現われて師弟の関係を結んだ」という手紙を、宣長の息子に出しています。 

 平田篤胤はたいへんな勉強家、努力家でしたが、このようにちょっとヤバい人で、かなりオカルトがかってもいました。平田は、それまで古典文学研究の範囲にとどまっていた国学という学問を、宗教化していくのです。 奈良時代以来、日本では神仏が習合されていました。しかし仏教はインドの宗教です。平田は、神道が外国の宗教に穢されていると主張し、神道を仏教伝来以前の姿にもどすべきだと主張して、「復古神道」を唱えます。 

 平田の思想は視野が狭く、排他的で独善的でしたが、文体が力強く魅力的で、感染力が強かったのです。多数の門人を集め、大きな影響がありました。しかも、平田が生きた江戸後期には、フェートン号事件、ゴローニン事件、モリソン号事件などがおきた時代でした。また、平田の最晩年には隣国の清ではアヘン戦争も起きています。外国船が日本近海に出没して、日本人は漠然とした不安にかられていたのです。ですから、平田の排外的な思想は、当時受け入れられやすかったのです。 平田自身もロシア語の勉強をしているほどで、外国の脅威にたいしては危機感をもっていたと思います。 

 幕末の尊皇攘夷思想は、思想的な系譜としては儒教的秩序論、儒教的歴史観に基づいていますが、異国を汚らわしいものとみなす平田国学の排他性は、尊皇攘夷とも結びつきやすかったのです。ですから、吉田松陰にかぎらず、幕末の勤王の志士たちは、みんな攘夷運動の出発時点では平田国学の影響を受けていたといえるでしょう。 

 松陰は、最初は水戸学(水戸徳川家が儒教的秩序論にもとづいて編纂した『大日本史』を中心とする尊皇論)の影響を受け、その後は国学へと関心が移ります。水戸学では、君子の秩序として天皇が大事だと説きますが、国学では神道の根源として天皇が尊いと説きます。天皇を尊ぶのはおなじでも、その理由がちょっとちがうわけです。 

さて、この平田国学は、とくに神社の神官につよく支持されました。明治維新後、この神官たちが政府に登用され、平田の復古神道にもとづいて「神仏分離令」を出し、廃仏毀釈運動という日本史上最悪の文化破壊を行ったのです。また、神道の国教化をおしすすめたのもこの連中でした。靖国神社などは、平田国学のグロテスクな産物です。 

 

いやあ、よく分かりました。どなたが書いたかはわかりませんが、ネットにはさまざまな問ひと答へが記されてゐて、使ひ用によつてはとてもありがたいと思ひます。 

さて、そのやうな平田篤胤ですが、あるとき、奇妙な經驗をするのです。以下また引用です。 

 

天狗小僧寅吉の出現は文政三年(一八二〇年)秋の末で、篤胤四十五歳のころである。寅吉は神仙界を訪れ、そこに住むものたちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。この異界からの少年の出現は当時の江戸市中を賑わせた。発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに少年が寄食したことにある。弟子達の噂が篤胤の耳に入り、かねてから異界・幽冥の世界に傾倒していた篤胤は、山崎の家を訪問する。以後この天狗少年を篤胤は養子として迎え入れ文政十二年まで足掛け九年間面倒をみて世話をしている。 

 篤胤は、天狗小僧を通じて異界・幽冥の世界の有様を聞き出した。文政五年(一八二二年)にはその聞書きをまとめた「仙境異聞」を出版している。これに対して、周囲からは少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないと批判された。しかし、本人は至って真剣であり、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。 

 「仙境異聞」に続いて「勝五郎再生記聞」、「幽郷眞語」、「古今妖魅考」、「稲生物怪録」など一連の幽なる世界の奇譚について書き考察している。

 

どうです。『古今妖魅考』がどのやうな本であるかが多少は分かつたのではないでせうか。「天狗・妖魔の存在の徴証を古今内外の文献資料のうちに探索」した本なんです。ちなみに、『仙境異聞・勝五郎再生記聞』は岩波文庫で讀むことができます。と言ひながら、ぼくはまだ讀んでゐません。興味があつても必然的な機會がこないと讀めないのですよね、すみません。 

言ひ譯すれば、獨學にとつて、やつてくる必然的な機會のために準備しておくことが大切なのであります。そのやうにして、我が『歴史紀行』も書き繼いでくることができたのでありますから、おたおた怠つてはゐられないのでありますです。はい。 

 

今日の寫眞(四頁)・・『古今妖魅考』の二、三卷と、『仙境異聞・勝五郎再生記聞』(岩波文庫)。

 


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