十一月十日(火)庚寅(舊九月廿九日 小雨降つたりやんだり

 

今日と明日は、「北國街道を往く(三)」(善光寺宿~出雲崎宿)のバスの旅です。その第一日目の今日は、長野驛(善光寺宿)を出發して、北國街道を高田宿まで、第二日目の明日は、高田宿から直江津を經て出雲崎宿までたどる豫定です。

第一回目の「北國街道を往く(一)」では、中仙道の追分宿から善光寺宿までと、中仙道の洗馬宿から松本宿を經た善光寺宿までの北國西街道をやつてきましたので、順番としては、引きつつづき今回の街道をとどるのがよかつたのですけれど、間に、高田宿から金澤宿までの北国街道「加賀街道編」が入つてしまひました。なぜさうなつたかは、追ひ追ひ分かると思ひますが、いずれにせよ、今回の北國街道「奥州道編」と銘打つた街道をたどることによつて、北國街道の旅が一應の完結を迎へることになります。

ただし、北国街道の終點をさらに金澤宿や出雲崎宿の先に求める説もありますので、通説に從つてかう述べておきたいと思ひます。

北国街道といへば、中仙道の追分宿からはじまつて、善光寺宿を經て高田宿まで至り、そこからさらに、加賀街道と奥州道に別れる街道を言ひ、五街道に次ぐ重要路線でした。ところが、江戸時代の街道を調べてみると、その外にも脇街道とか裏街道、姫街道や鹽街道や鯖街道、さらには忍び道とか、まあ公には出來ない抜け道なども含めてたくさんあつたやうです。

そもそも、善光寺宿にしたつて、大雨がつづいたりしますと、人々の流れがとまつてしまつたさうです。地圖は常に手元においてほしいのですが、江戸方面から善光寺に行くには、矢代宿の先で千曲川を渡り、丹波島宿で犀川を越さなければなりません。ところがこれらの渡しが大雨によつてたびたび川止めになつてしまひました。そこで必要になつたのが脇街道といふか、迂回道路だつたのでして、そのために設けられたのが松代街道でした。

矢代宿で右折し、山際を進むと松代城下に至り、さらに川田、福島、長沼、そこでめつたなことでは川止めにならなかつた千曲川の布野の渡しを越し、神代の各宿場を經て、牟礼宿手前の平出の追分で再び北国街道に合流するのが松代街道でした。大雨があると通行者がふえるので、「雨降り街道」とも呼ばれてゐました。

たとへばよく利用した加賀藩をはじめ高田藩や長岡藩などの大名の通行の場合、善光寺參りするわけではありませんから、二つの川を避けた迂回路は大助かりでしたでせうね。さらに、佐渡からの金銀の輸送も急いだでせうから、なくてはならない脇街道であつたと言ひことができると思ひます。

さて、こんなことを前振りとして、バスときどき徒歩の旅に出發したいと思ひます。

 

ぼくは前回と同じく上野驛の新幹線乘り場から乘車しました。《はくたか553號》でした。參加者は總勢二十七名、添乘員は山寺さん、長野驛で待つてゐてくださつた講師の岸本豊先生ご夫妻とともに、驛前よりバスに乘つていざ出發です。

ちやうど九時半、驛前をスタートしたバスは、ぼくにとつては未知の世界へと走り出しました。左手奥に鎮座する善光寺にちらりと目を向け、しばらくは市街地を進みました。さういへば、長野電鐵が地下に潜つたんですね、本郷驛とか桐原驛の入口だけが目にとまりました。

いくつかの交差點を右に左に曲がつて行くと、左手の山の木々が色づいてきれいでした。岸本先生は、ここが猪瀨前東京都知事が出た高校だとか、しだいにゆるやかな坂をのぼりつつ、正面に見えるこんもりとしたのが髻山(もとどりやま)であるとか、左手の山の中腹に見える白いガードレールの道が北國街道であるとか、いや、はじめから先生はサービス精神旺盛でありまして、ぼくは聞き流さないやうにするのが精一杯でした。

まづはじめにバスを降りたのは、平出といふ松代街道との追分近くでした。あまりにもたくさんのダンプトラックが行き來するのでよく見ると、墓地の造成地のやうで、いささか興ざめしなくもありませんでしたが、いやあ、なんとも美しい眺めの良いなだらかな高原にやつてまゐりました。回りには林檎の畑が點在してゐます。

そこは、丹霞郷(たんかきょう)といふ場所でした。春には桃の花が咲き誇り、景色が霞んで見えるのでさう名づけられたやうです。朝まで雨が降つてゐたのでせうか、濡れた草を踏みしめながらさらに高臺に上ると、そこからはるか眞北には斑尾山が見えました。その左方向には北信五岳と呼ばれる飯縄山や戸隠山や黒姫山や妙高山が見えるはづのやうなんですが、それらは殘念でした。が、左手後ろには、先ほどは前方に見えたゐた髻山が、その「髻状に盛り上がった溶岩ドーム」の姿を現してゐました。頂上には、上杉謙信が川中島の戰ひに備へて築いた髻城跡があるさうです。

そこにはまた「丹霞郷」と彫られたモニュメントが建つてゐて、先生は、そこで、例の唱歌《ふるさと》の解説をしてくださりました。「兎追ひしかの山」の「かの山」とは、作詞者・高野辰之の故郷の斑尾山であるさうです。そこで、奧樣のオカリナの伴奏で、みなさんと今回の旅の第一曲目の歌を歌ひました。

また、造成地沿ひには、ここは松代街道なのですが、白坂峠一里塚がこんもりと保存されてゐました。ところが、片方の塚は、最近まであつたのに、造成のために削り取られてしまひました。悔しいことです。

 

さて、以降は詳しくは「紀行」で記すことにして、大急ぎで記録しておきます。

つづいてバスで牟礼宿に向かひ、JAの建物と化した本陣跡を確認し、「異安心事件」といふちよいと調べる必要のある、氣になつた證念寺の前を左折し、十王坂を上つて進むと、佐渡からの金銀の中繼地である金附場跡を見てゆくと、信越本線の踏切の手前に「武州加州道中堺碑」が建つてゐました。江戸と金澤の中間地點の石碑であります。

「歩きたくなるみち500選」のひとつ、小玉坂はバスで迂回し、つづいて柏原宿に到着しました。もちろん一茶舊宅を見學し、さらに野尻宿でお晝をいただきました。わかさぎのフライが美味しかつたですが、その量が多すぎて食べきれませんでした。

關川では關所跡よりも、雨のふるなか、先生が見つけたといふ、ぬかるんだ「忍び道」を歩きました。

また、大田切といふだけ規模の大きな田切地形を堪能し、二本木宿をぶら歩き、ついに高田宿に着きました。が、まだゴールではありません。高田城跡では、《四季の歌》を歌ひ、三重櫓には見とれ、最後に、高田宿の雁木通りにある交流館と北國街道追分道標を見學と確認して、今日の豫定はお開きとなりました。

宿は直江津のルートイン上越、初めての一人部屋でした。夕食については、「紀行」にて。

 

今日の寫眞・・小林一茶舊宅にてと、高田城三重櫓 

 


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