十月廿七日(火)丙子(舊九月十五日・望 晴、強風

 

朝、齒科へ定期通院。クリーニングしていただく。わづか數分のことですけれど、月一缺かせない通院です。さういへば、明日は慈惠大學病院へ通院です。これはぼくの生命にかかはる通院ですから、我が家ではこれをぼくの「ご公務」と呼んでゐます。

 

そろそろ、『北國街道を往く(二)』(金澤街道編)の作成にかからなければなりません。寫眞の整理に手間取るといふか、他の用事で後回しになつてゐたんですが、それもどうにか濟みましたので、明日以降がんばつて仕上げたいと思ひます。

 

今日の讀書・・半村良著『講談 大久保長安』(光文社文庫)を讀み進みました。語り口はくだけてゐるんですが、面白いだけではなく、今まで斷片的に學んできた武田氏滅亡から、信長の暗殺、そして德川家康が政權を強固にするまでの歴史が立體的に俯瞰できる仕組みになつてをるのであります。講談調の魅力ある本書の冒頭をちよびつと紹介します。

「時は天正八年と申しますから、西暦の一五八〇年。あの本能寺の変の二年前のことでございます。

まあ、このころのわが国は、現代(いま)から見れば面白いと言ったら面白いかぎりで、織田信長は三年前から安土城へ移って、外人宣教師に学校を建てる許可などを与えようとしているし、豊臣秀吉はまだ羽柴筑前守播磨を平定する寸前。明智光秀は丹波の国を与えられてうれしがっていると言った具合。

幕末、土佐勤皇党胎動の遠因を作ったとされる長宗我部元親だって、德川の天下になったら山内さんが土佐へ来て自分の国がなくなっちゃうのも知らないで、信長に鷹や砂糖をプレゼントしてゴマをするのに懸命だ。

西ではキリシタン大名が登場してきて、有馬晴信などという殿樣が洗礼を受けたりしております。

德川家康は三河と遠江を領土として、東に北条、北に武田と、苦労している最中だ。」

まあ、これくらゐにしておきますが、東京語は「ナヤシ方言」(長野・山梨・静岡)の一つに分類されてゐるとか、「彼ら(山人)は言葉さえ無駄にはしないのだ。その点現代人は言葉を浪費すること夥しい。きっとそれは何かの堕落なのだろう」といつた警句や、「かわり番子」の語源は、製鉄炉(タタラ)を踏む作業員である番子が疲れるとすぐ次の番子に入れかはることに由來するとか、とにかく含蓄に富むといふか雜學の寶庫なのであります。一册で、二度どころか、三度も四度も美味しい本なのであります。以上、半村良さんへの讃辞でした。

 

今日の寫眞(12頁)・・例のごとく新聞の切り抜き、といふより本の廣告。

 

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