十月七日(水)丙辰(舊八月廿五日 晴

 

目覺めて、ホテル八階の窓のカーテンを開けると、蛇行して流れる黒部川が、遠く平地をめざして流れゆくのが望まれました。兩側には山が迫り、これを山峡の町とでもいふのでせうか、足下の町はまだ闇に沈んでゐます。それも、太陽が昇るにつれ、左手の山の連なりが明るく照らされるに從つて目を覺ましていきました。

北國街道、いや、ここでは加賀街道と呼ぶ方が適切かも知れません。その旅の二日目を迎へました。晴れわたつた氣持ちのよい朝です。

ふと思ひ出したのですが、ぼくは高校三年生のとき、一人で北陸旅行をしたのでした。信越線で直江津、富山、高山、岐阜、東海經由でぐるりと周遊したのです。途中、市振驛に降りて親不知を訪ね、その日は宇奈月温泉に泊まりました。次の日は黒部峡谷鐵道で欅平まで乘つて、川原の野天風呂に入りました。ところが、富山驛から高山線に乘りかへたところで、それまで撮つた寫眞のフィルムが紛失してゐることに氣づいたのです。ですから、この一人旅の記念の寫眞はまつたくありません。なんだか、人生における空白地帶のやうな感じがして、今でも心が疼きます。

でも、ただ一つ、この旅を證據だてるものが見つかりました。それが、切符、乘車券です。硬券で、しかも東京から東京都區内ゆきなんです。日付は、四〇・七・二六。つまり昭和四十年(一九六五年)七月二十六日、今からまるまる五十年前の切符です。思はず頬ずりしてしまひました。

いや、餘計なことを思ひ出してしまひました。まあ、一應、思ひ出不快、ではない思ひ出深い宇奈月温泉に泊まりましたので、記しておきたいと思ひます。

 

さて、八時、ホテルのお姉樣方のお見送りをうけ、バスは全員を乗せて、まづ魚津に向かひました。昨日徒歩で渡つた愛本橋が、黒部川が山峡から平地に出た最初の橋でしたので、もはや、下流域の枝別れした、芭蕉が、「くろべ四十八か瀨とかや數しらぬ川をわたりて」と言つた、それらの多くの橋を渡る必要はありません。一氣に魚津の町に到着しました。

ぼくにとつては初めての町です。しかもバスを降りたところは海邊でした。岸本先生のお話が聞こえてきましたので、靑く廣がる海を背に、殿(しんがり)のぼくはできるだけ近づいて耳を傾けました。

説明板には、「米騒動発祥の地 大正七(一九一八)年、全国をゆるがせた米騒動は、七月二十三日の魚津町で起こった汽船への米の積み出し阻止が発端といわれています」、とありました。これによつて、當時の寺内内閣が總辭職したといふのですから、記憶すべき事件ですね。「日本史上最大規模の民衆蜂起」であつたのです。迂闊にも知りませんでしたが、いつの世も、力ある者の横暴によつて苦しむのは庶民なのであります。まづはじめに漁民のおかみさんたちが立ち上がつて行はれた阻止行動であつたといふことにも注目したいと思ひます。岸本先生ならではの見學地だつたのだと思ひ、感謝いたしました。

いや、はじめから熱くなつてゐてはあとが持ちませんので、このくらゐにして、みなさんのあとに從ひます。海岸から一歩入つた通りが北陸街道でした。そして、そこには、米騒動當時の、舊十二銀行事務所と米倉と土藏が現存してゐました。

 

つづいてバスが向かつたのは岩瀨でした。加賀街道を往きます。右手は海岸まで田畑が廣がり、それが、扇状地の先端とはいへ、傾斜したまま海になだれ込んでゐます。地理學者の先生によると、ですから、田圃がゆるやかな棚田になつてゐます。ところどころに松竝木が見られました。このあたり、越の松原といふらしいです。

途中、富山市に入りましたが、人家がまばらなところでは、左手に北アルプスの山々が雲の間から見え隠れしてゐます。先生の専門分野でもあります。あれこれたくさんの説明をなされたんですけれども、殘念なことにほとんど理解できませんでした。すみません。

 

さて、やつと岩瀨濱に着きました。そこは、「岩瀬浜」といふ驛の前でした。終點驛のやうですが、なんといふ鐵道なんでせうか。確認できないまま、融雪装置が敷かれた街道を歩きだしました(後で、富山ライトレールと分かりました)。兩側はみな古い家々で、何となく氣持ちまでも古くといふか、落ち着いてきます。

岩瀨運河を越えるときも、上流の彼方に見える山々の解説。再び古い町竝。そして突然現れたのが、北前船廻船問屋の豪勢な店舗が建ち竝ぶ大町通りでした。向つて右側に宮城家とか、馬場家とか、森家とか、米田家とかの「力ある」豪商の家々が竝ぶ一方、左手は一般庶民の家が建て込んでゐました。豪商の家々の裏手は直接運河に接してゐて、いはば倉庫でもあつたわけです。

見學できる家もありましたが、北前船のモニュメントがある小公園でトイレ休憩をとつただけで、行軍は止まることなく行進しました。まあ、見たからといつて、はあはあとうなづくしかないでせうし、金持ちの生活から學びたいとも思ひませんしね。

そのまま、バスの待つ岩瀨東公園までやつてきました。ところが、そのバスが、待てど暮らせどやつてこないのであります。何故かよからぬ豫感がしました。が、約三十分待つたでせうか、やうやくやつて來ました。待つ場所を間違へたらしいのです。

 

バスに乘るやいなや、先生のお話に熱がこもりました。これから、芭蕉が行きたいと願つたのに行けなかつた場所に行くといふのです。雨晴海岸といふところなのださうですが、ここもぼくには初耳でした。芭蕉心殘りの地とも言ひましたが、『奥の細道』に雨晴海岸なんて書かれてあつたでせうか。

ともかく、新湊大橋を渡り、海の見える景色のよい道路を走つて、五十分ほどで到着したところは、海岸べりの小公園でした。そこに、大伴家持の歌碑が建つてゐたのです。あの、萬葉集の家持の碑です。

聞いてみると、家持が越中の守時代に詠んだ歌のやうです。

「磯の上のつまゝを見れば根を延べて年深からし神さびにけり」

「つまま」とは、タブノキのことです。それが、根を張つたさまが、年を經て、いかにも神々しく見えるとでもいふ意味なんでせうが、意味がわかつても、歌は何も答へてくれいところが、難しいところでもあり、また魅力なんでせうね。

芭蕉が行きたいと思つた所は、ここなんでせうか。と思ふ間もなく、國道を渡り、また最近設置されたといふ氷見線の踏切を越えると、今度は、義經岩が現れました。

説明板があつたので、覺えのために寫し取つておきます。

「雨晴海岸と雨晴岩 二上山の山裾が富山湾に没するこのあたり一帯は、白砂青松と日本海では数少ない遠浅海岸の 『雨晴海岸』 です。 

この岩は別の名を 『義経雨はらしの岩』 といい、文治三年(一一八七年)に源義経が北陸路を経て、奥州下りの際ここを通りかかった時、にわか雨にあい、この岩の下に家来ともども、雨宿りをしたという伝説があり、亦近在する女岩、男岩と共にこの海岸は秀景をなし、かつ越中国司として伏木に在住した青年歌人大伴家持もこの絶景を多く万葉集におさめています。」

たしかに、岩の下が幾つも空洞をなしてゐます。ですが、槍や鉄砲が襲ひかかつてきたわけではあるまいに、わざわざ隱れるほどの大雨だつたんでせうか。もしろ、海岸のうつくしさ、その景色こそ絶賛を送りたいと思ひました。すばらしい眺めです。

海岸で、先生が掲げられた寫眞を見て、遠くの山々の名前も一應分かりました。劔岳に大日岳が飛び抜けてゐます。が、ここが、はたして、『おくのほそ道』の景勝地、有磯海なんでせうか。これは歸宅して調べなければ納得がいきません。

波寄せる海岸沿ひに、次は、つまま公園に行きました。そこには、先ほどの石碑と同じ歌が刻まれた古びた石碑が建ち、そばには萬葉假名で説明がなされてゐました。ぼくが意味を穿鑿する必要はありませんでした。

さらに行軍は線路にそつて歩きました。向かひには海中に姿を見せてゐる女岩が近づいてきました。列車がきたらいい寫眞が撮れるのにと思ひながら歩みましたが、本當ならば、歌や俳句が詠めたらいいんでせうにね。ぼくの苦手な世界ですから、観賞するにとどめておきませう。

あッ、どなたかが、「雨晴芭蕉の悔いを今晴らす」と言ひましたよ。ぼくは、さうだ、それなら、「雨晴芭蕉の悔いを今晴らし」のはうがいいと思ひましたが、人の句を弄んだやうですみません。

最後に、丘に登り、もみじ姫の像を訪ねました。平安時代の悲しい物語の主人公の銅像です。それなのに、ワンピースの服装なのはどうしたものなんでせう?

以上、午前中の豫定がこれで終了しましたが、あまりにも中身が濃いので、消化仕切れないまま、晝食會場へ向かひました。

 

晝からは端折ります。まづ、高岡市内に向かひ、高岡大佛といふのを見ました。そこから、ジユウデンケンと呼ばれる、「重要伝統的建造物群保存地区」の一つ、山町筋の土藏造りの町竝を歩き、本陣跡の角を曲がつて、所定の場所に着きました。ところが、またバスがゐません。二十分ほど待つたでせうか、つづいて倶利伽羅峠、源平の古戰場を訪ねました。

山の上です。『平家物語 第七卷』、「くりからおとしの事」のところを、『新版絵入平家物語(延宝五年本)』といふ影印本で讀んできたもので、見るべきものは見て來ましたよ。平家方四萬が追ひ落とされたといふ崖は思つたより深くて急でした。

最後の最後は金澤です。降りたところがすでに人でごつたがへしてをりまして、はじめから迷子になりさうでした。どうにか先生の後を追ひ、二つ目のジユウデンケン、金澤東山茶屋街を通り抜け、三條大橋に似た浅野川の梅ノ橋に出ました。つづいて一つ下流の淺野大橋をわたり、三つ目のジユウデンケン、主計町茶屋街の細い路地を縫つて歩き、泉鏡花記念館の脇をすり抜けて、金澤城は大手門に到着したのでした。

 

ぼくは、かつて一度だけ、母とともに金澤に來たことがありました。弟が金澤の「加賀さし物師」に弟子入りし、その後再び東京にもどつて來るときに迎へに行つたのでしたか、室生犀星の記念碑の前で寫眞を撮つたのが思ひ出されます。そんな程度ですから、金澤城ははじめてで、中に入つてから、お城巡りと兼六園見物の二つのグループに分かれて散策することになりました。ぼくは、岸本先生について、石垣巡りではありませんでしたが、橋爪橋から、橋爪門を通り、三十間長屋から回り込むやうにして、戌亥櫓跡、つまりもと天主閣があつたところを訪ねました。金澤城公園が一望できるところで、目の前の各櫓の屋根の瓦が鈍く光つてまるで雪が積もつてゐるやうでした。そこで、もう日が陰りはじめましたが、十五名の方々で記念寫眞を撮りました。

集合場所に向かひ、石川門を出ると、正面が兼六園の入口でした。が、そこにぼくらのバスが待つてゐるではありませんか。先ほどの遅れを挽回するために迎へにきてくれたものとばかり思ひ、足を運ばうとすると、他の方々が、「あれは違ふよ、この金澤の觀光バスで同じだけれど、間違へやすいね」といふのです。たしかに同じバスでした、が、みなさんとともに坂を下り、無事にぼくらのバスの待つ駐車場に到着することができました。

 

さあ、困りました。みなさんバスに乘り込んだはいいのですけれど、お一人の男性がまだだつたのです。山寺さんはじめ何人かの方が兼六園にもどつて探しましたけれども見つかりません。仕方なく、山寺さんだけを殘して金澤驛に向かひました。新幹線の發車時間にもそれほど餘裕はありませんでした。みなさん心配顔でしたが、どうにか驛に着き、新幹線乘り場の團體入口に着きました。ひと安心です。と、そこに失はれた彼が顔を見せたのでした。

さうかと思ひました。が、譯をきいて、ぼくは他人ごとではないと思ひましたので、ここにあへて書くことにしました。それは、先ほど、石川門を出た時、ぼくが迎へに來てくれたと思つたバスがありました。彼は兼六園から出てきてトイレにより、そこから出てきた目の前にそのバスが見えたのでした。ところが、彼もそのバスがてつきり自分たちが乗るべきバスだと思ひ込み、しかもそれが自分を置いて出てしまつたものですから、たいへんあわててしまつたのでした。そこにまだ停車してゐれば違ふことが分かつたでせうが、確かめる間もなく行つてしまつたわけです。それで、タクシーで驛にやつてきて、まあ、めでたしめでたしだつたのです。

はじめに、バスを間違へないやうに氣をつけておくべきでしたが、とつさの場合氣が動轉してしまふのですよね。このことは、ぼくにも勉強になりました。もちろんみなさんも自戒をこめられたことでせう。

短時間のうちにお辨當を買ひ出しに行き、一八時五一分發東京驛行き《かがやき號》に乘つて、どうにかみなさんとともに無事に歸路につくことができました。

さう、今日一日で、一九三〇〇歩でした。バスの旅にしては、よく歩きました。

 

今日の寫眞・・雨晴海岸にて、倶利伽羅峠にて、泉鏡花記念館前にて、そして、金澤城天主閣跡にて。

 



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