二〇一五年五月(皐月)一日(金)丁丑(舊三月十三日 晴、暑い

 

昨夜、ワード版『歴史紀行四十六 中仙道を歩く(廿六)』(加納宿~赤坂宿)を仕上げることができたので、午前中いつぱい、讀み直して訂正し、また加筆などして完璧をきしました。それで、早く落ち着きたいので、引きつづき、今や遅しとお待ちの方々に、いや、そんな方はをられないでせうが、お送りしてしまひました。

 

午後は、自分のご褒美に、神田古書會館で開催中の古書展を見學に行きました。まあ、見學ですから費用はかからないのですが、それでも、せつかくですから、目についた、丸谷才一さんと山崎正和さんその他の對談集、『雑談 歴史と人物』(中央公論社)を二〇〇圓で購入。それと、世阿彌の、『申楽談儀』(岩波文庫)、これも二〇〇圓でした。

それによると、「養老」は世阿彌ですが、「自然居士」は観阿彌の作なんですね。つまり、謠曲は世阿彌一人の作品ではないのです。能の謠(うたひ)ですから、ほんとうは能樂を鑑賞するべきなんでせうが、ぼくは、今のところ讀むだけで我慢したいと思ひます。

 

また、夜のひととき、先日につづき、文庫本の古典作品を書かれた年代順に竝べました。今晩は、特に、岩波文庫でいへば靑帶の作品です。江戸時代のものがほとんどですが、中江藤樹やら、山鹿素行、伊藤仁斎に貝原益軒、さらに新井白石、石田梅岩、山縣大貳、賀茂真淵、安藤昌益、手島堵庵、三浦梅園、平田篤胤、『松翁道話』、『公益国産考』、二宮尊徳の『二宮翁夜話』と『報德記』、はたまた佐久間象山の『省諐錄』や『西郷南州遺訓』とか、まあたくさんゐること。これを年代順に竝べると時代が多少は見えてくるかも知れません。

これらの思想が、たつた數百圓で手に入り、そして自分の目と心で、タイムスリップしてでもあるかのやうに、その時代の生の聲が聞こえてくるんです。ぼくは、新しい思想や哲學にも興味があり、又期待をしてゐないわけではないんですが、それらがぼくたちの未來を切り開くことができるんでせうか。ぼくは傍らからみてゐるだけですが、懐疑的です。

それよりも、むしろ、ぼくたちが今未來を切り開くために必要な敎へは、すでに、數百圓の古本の中で語りつくされてゐるのではないでせうか。そのタイムトンネルの扉を開かうとしてごらんなさい。われもわれもとちよんまげをつけた思想家たちが押し寄せてくること必然です。そして、そのかれらの熱意から誰が逃げ出せるでせうか。

と、ぼくは文庫本を整理しながら幻をみてしまひました。

 

今日の寫眞・・丸谷才一・山崎正和對談集『雑談 歴史と人物』(中央公論社)と世阿彌『申楽談儀』(岩波文庫)。

 

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