二〇一五年四月(卯月)十一日(土)丁巳(舊二月廿三日 雨のち曇天

 

今日は、待ちに待つた、史策會の流山散策でありました。常磐線馬橋驛に午後一時、いつもの七人が勢揃ひし、まだパスモが通用しない、流鐵流山線に、それぞれ切符を買つて乘りました。

午前中は雨降りでしたが、待ちあはせた時刻にはすでにやみ、願つてもない幸運でした。

ぼくは、流山驛を降りるのははじめてでした。驛前廣場にでると、どこか遠くの地方驛かと思はせるしなびた、いや、ひなびた感じがいたしました。そこで、「流山本町・江戸回廊マップ」をいただいて、歩きはじめましたのでありました。

今回のリーダーは歴史に詳しい大塚さんです。一度來られた經驗をいかして、適切にあちこちと案内してくださいました。

まづは、近藤勇陣屋跡をめざして歩きました。すると、ちやうどそこに、大塚さんが連絡してくださつてゐた、ガイドの青柳さんがをられて、さつそく説明をいただきました。秋元稻荷神社の脇の金網に貼られたトタン板に何やら文字が記されてゐました。青柳さんに指をさされなければ、素通りしてしまつたであらう、かすれた看板のやうで、しかし、そこに記された文字に驚いてしまひました。近藤勇の「辞世句」だつたんです。すでに覺悟をしたその日に作られた漢詩だといふことです。しかし、そのみすぼらしさに、みなさん思はず、もつとどうにかならないもんなんですか? とため息がでましたですね。はい。

また、隣接する直賣所に寄りました。さう、流山は、水運とともに醸造業(みりん)で榮えた町だつたんです。「萬上味醂」と「天晴味醂」が有名のやうです。そのみりんと、ついでに焼酎をお買ひになつた方もをられましたが、ぼくは、何やら小冊子が棚に竝んでゐたので、ちらちらと立ち讀みしてしまひました。

 

さて、めざす近藤勇陣屋跡は、そのまたすぐ隣でした。追はれ追はれて、五兵衞新田(足立區綾瀨・・さういへば、電車の中からその觀音寺がすぐ下に見えますね)から、水戸街道、金町・松戸關所を通過してたどり着いた天領流山に、新撰組一同は分散して宿をとつたやうなのであります。そして、近藤勇が陣取つたのが、ここ、流山本陣だつたのです。

しかし、新政府軍に包圍され、近藤勇は出頭、後に板橋宿にて斬首となつたのですが、土方歳三らは、さらに落ちのびていつた、さういふところなんです。(未完)

 

今日の寫眞・・流鐵馬橋驛にて。近藤勇の「辞世句」前と、その陣屋前にて記念寫眞。

 


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