三月廿六日(木)辛丑(舊二月七日 晴

昨夜はライトアップされた犬山城をあれこれ工夫を凝らして撮影しましたが、今朝はまた屋上に上がって、木曽川と犬山城を堪能することができて、心おきなくホテルをあとにしました。それにしてもいいホテルでした。今まで宿泊したホテルのうちでも、最上のクラスではないでせうか。バンドエイドの小さいのしか持つてゐなかつたので、聞いたら、すぐ大きなのをくれましたしね!

さて、再びバスでスタート場所に到着後、まづはストレッチをしてから歩きはじめました。歩き出してから、何だか落ち着いた氣分で、みなさんも和やかなので、どうしてかなと思つてゐると、さうですね、昨日は激しく自動車の行き交ふ國道を歩いてきたんでした。けれど、「間の宿 新加納」に入つたところからは、中仙道の舊道なんです。自動車を見ることはまれ、靜かでところどころに古い家を殘した町竝がつづきました。

 

出發してすぐに、百四番目の新加納の一里塚につきましたが、その前後にはまた、和宮さんが休息された梅村屋茶屋本陣跡や、枡形を突き當つたところには、御典醫を勤めた今尾醫院の舊家、さらに高札場跡などの見所がありました。

しばらく行くと、きれいな竹林が左右に見られ、人家がまばらになりはじめ、すると急に前方が開けてきました。ものの本によると、ここらあたりが各務原臺地から濃尾平野へと入つていく境のやうです。右に名鐵各務原線と高山本線が平行して走つてゐます。これはいい寫眞が撮れるかなと、昨日の挽回を期待したんですけれど、これまたなかなかやつて來ません。やつて來ても、上を通る東海北陸自動車道の橋脚に邪魔されたり、人家に立ちふさがられたりで、また空振りでした。

 

高田三丁目も交差點を左折したので、これは信長さんの崇敬篤い手力雄神社に行くのかなと思ひましたが、いやなに、公園でトイレ休憩でした。暖かくて明るい公園でした。ゲートボールに興じてをられるご老人方もお元氣でと思つたら、なになにぼくたち一行と變はらない年代のやうでした。はい。

あ、さう、信長さんはもうをられませんでしたが、このあたりは、関ヶ原の戰ひの前哨戰が戰はれたところのやうです。その當時はまつたくの野原でしたでせうから、お互ひに先手をと思ひつつ進軍し、ちやうどこの邊でぶつかつたんでせう。

貝原益軒の『東路記』にも、「新加納は、加納の東一里半にあり。鵜沼より加納への道なり。是、慶長五年、岐阜の勢と味方の勢諸大將と合戰の所なり」とあります。「味方の勢」とは、德川軍のことでせうね、もう勝敗を決したのちの記述ですから、益軒さんも、味方と言つてゐるところなんて、體制迎合か順応のお方だつたやうですね。

(未完)

 

今日の寫眞・・名鐵 茶所驛踏切にてと、岐阜公園の「板垣退助遭難地」碑にて。



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