三月廿日(金)乙未(舊二月朔日・朔 曇天

今日は、『中仙道を歩く(廿四)』の册子版を一氣に仕上げました。そして、誤りがあつたことを記した以下の文章とともに、册子版の方々へお送りしました。

 

こんばんは。

『歴史紀行四十三 中仙道を歩く(廿四)』(御嶽宿~鵜沼宿)の册子版ができあがりましたので、お送りいたします。 

ところで、今回は、ワード版をお送りしてから大變な誤りが判明しました。讀者からのご注進をいただいたのであります! こんなことはじめてですけれど、誤りは誤りです。

册子版では、それを訂正し修正しました。しかし、誤りがあつたことを、なかつたことにはしたくありませんので、その誤りをありのままに述べながら訂正するといふ、手品のやうな手法(?)を用ゐました。 

どこが間違つてゐたのか、ほんとは、みなさんにも考へていただくといいのですけれど、それでは、いぢわるみたいですので、はじめに述べておきます。それは、板垣退助の岐阜事件に關する部分で、正しくは、板垣さん、その時岐阜で死んではゐないのです。詳しくは、本文をご覽ください。 

ですので、これは册子版ですが、訂正したワード版(ただし寫眞抜き)も一緒につけておきます。大變お騒がせ・・、なんてそんな騒ぎはどうしたわけか起こつてをりませんが、間違つたことを公にしてしまつたので、お讀みの方には「正しい歴史認識」をしていただきたいと思ひます。 

ただ、ワード版だけが賴りの方へは、寫眞抜きではなく、改めて訂正したものを近日中にお送りするつもりです。次號の中で訂正を告げやうと思ひましたが、氣持ちが冷えないうちにやつてしまふことにしました。本文の「注五」の中でも言ひましたが、まあ、明治時代の歴史の不勉強の結果だと思ひます。それにしても思ひ込みの恐ろしさをつくづくと感じました。それは、知らないのとは違つて、決めつけてゐたからです。

と言つたところで、とんだ恥さらしでした。ひげ

 

お彼岸になりましたので、午後、お坊さんが來てお經をあげていかれました。相變はらず意味の通じない、呪文のやうな言葉を聲高に唱へてゐましたが、どうなんでせう。祖父母にも父にも叔母にも通じてゐるんでせうか?

 

今日の讀書・・丸谷才一著『日本文学史早わかり』(講談社文庫)讀了。文學史を、政治史や社会史などの時代區分とは別に、「『詞華集』、わけても『勅撰集』を手がかりにして日本文学史を構想することこそ、日本文学の本質に迫る最も正統な行き方ではないか」といふ内容なのであります。詩歌の苦手なぼくですから、よくわかりませんでした。

ただ、例へば、『源氏物語』が、『古今集』をそらんじてゐた共同體のなかでこそ成されたといふところが大切に思ひました。それとまた、次の言葉が心に響きました。「横の方角に共同体があり、縱の方角に伝統があるとき、その縱と横とが交叉するところで詞華集が編纂され、そしてまた読まれる。といふのは、われわれは伝統を所有する際に、孤立した一人ひとりの力で持つことは不可能で、共同体の力によつて持つからである。・・われわれの文明と文化は共同体的なものを失つてからすでに久しい。そしてそのことがどういふ弊害をもたらすかと言へば、いちばん歴然としてゐるのは言葉の衰弱である。言葉は過去から伝はつて來た力を失ひ、社会を養ふことをやめてしまつた。」

つまり、今日、もはや古典を讀み理解する共同體は失はれてしまつたと言ふのです。ぼくの努力なんか、丸谷さんに言はせたら、「孤立した個人にさういふことができるといふのは、ロマンチックな妄想にすぎない」といふことになります。きつとさうなんでせう・・・。

 

今日の寫眞・・お經をあげるお坊さんと、丸谷さんの、『日本文学史早わかり』。



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