三月六日(金)辛巳(舊正月十六日・望・啓蟄 曇天、夕方から雨

久しぶりのラフォーレの仕事で修善寺にやつて來ました。

ただ、直行ではなく、途中、神田の古書會館に寄りました。金曜日になるとどうしても足が向いてしまふのであります。初日の朝ですから、大勢の人でごつたがへしてゐました。今日は“城南展”ですが、なんと歴史ものと國文學もので埋め盡くされてゐるといつても大げさではありませんでした。その中でもぼくの目を引いたのは、影印本の册子でした。室町物語影印叢刊(三弥井書店)の一から四まで、『善光寺如來縁起』、『酒呑童子 伊吹山系』などです。わくわくしてしまひました。でも、あまり時間をとつてはゐられませんでした。

御茶ノ水驛から東京驛まで行き、一二時發の踊り子號に乗れたのでほつとしました。これだと三島驛で乘りかへる必要がないからです。修善寺驛にカバンを預けて、そこからはバスで温泉驛まで、二二〇圓でした。

はじめに明かしてしまひますと、今回は、宮脇俊三さんの『平安鎌倉史紀行』(講談社文庫)の中の、「修善寺の墓」の章に從つて歩きました。ぼくは、修善寺には、ラムと出會つた一九九八年一月から、毎月何度となく來てゐたんですが、肝心な史跡巡りはしてこなかつたんです。怠慢といふか、いつでも來られるとでも思つてゐたんでせうか?

今日の寫眞に、「觀光地圖」を載せましたので參考にしてください。

それで、まづ日枝神社の源範賴幽閉場所の跡地を訪ねました。義經をかばつたばかりに賴朝の疑ひを招き、幽閉されて殺されたしまつた範賴は、何とも悲劇の人ですね!

次に、修禪寺の寶物館にはじめて入りました。人がけつこう出てゐたのに、誰も寶物館にはゐませんでしたので、ゆつくり見ることができました。宮脇さんご指摘の、「賴家公所用陣鉦」、北條政子が賴家の菩提をとむらつて寄進した「放光般若經」。これには、政子の眞筆で爲書(ためがき)が記されてゐるんです! それと「公曉血書」と呼ばれる、公曉が父賴家の仇(あだ)の實朝を討つ誓ひを心魂こめて筆寫した阿陀經です。

それからしばらく山沿ひの道をたどつて、範賴の墓にたどり着きました。眺めのよい南向きの傾斜地に、木立に圍まれてありました。

つづいて指月殿と賴家の墓と十三士の墓を訪ねました。温泉場の裏道から坂道をくねりながら上つていくと、いきなりそばの竹藪でウグイスが大きな聲で鳴き始めたんです。ケキョケキョケキョと聲が消えゆくまでぼくは聞き惚れてしまひました。

ところが、指月殿から眞つ直ぐ下りてくると、そこは、なんと三笑さんの脇ではありませんか。なつかしくて顔を出したら、ご主人と奥さんがをられてお會ひすることができました。ずつとお箸を納めてゐたのに、東京へ歸つてからは休止(?)してゐるので、ちよつと恥ずかしかつたんですが、氣持ちよく挨拶ができました。娘さんの結婚式をラフォーレでやつたことも思ひ出されました。

 

再び驛にもどり、シャトルバスでラフォーレへ。今回はゲストハウスでした。とてもいい部屋で、夕食も會席料理でした。

驚いたことに、中國人觀光客がバス五臺で來てをり、それでいつものホテル棟でなく、むしろ快適なゲストハウスに泊まることができたんだなと思ひました。ところがです、夜十時頃、いきなり停電したんです。

 

今日の寫眞・・觀光地圖。源範賴幽閉場所の跡地。政子眞筆の爲書。範賴の墓。賴家の墓と十三士の墓。





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