二月廿六日(木)癸酉(舊正月八日・上弦 雨

中仙道を歩く、二日目の今日は終日雨でした。まあ、しよぼしよぼの雨でしたし、覺悟はしてゐましたが、やはりどこか無意識に餘分な力が入つたりするんでせうか、疲れたなあと言ふ感じは拭へません。

それでも、朝目覺めて外を見たときには降つてはをらず、ホテルを出る時に、待つてましたとばかりに降りはじめたのでした。でも一行はなれたもの、八時半にバスのところに集合、荷物を預け、何ごともないかのやうにストレッチにはげみ、昨日の宿場の街道までもどりました。昨日はぼーつとしてゐたものの、この驛前通りは星通りとも言ふらしくて、所々に星座のモニュメントが建つてゐました。ぼくの魚座は見えませんでしたが、どこかにはあるんでせう。いや、餘計なことでした。

 

さて、宿場然としたたたずまいの家竝みを歩きはじめて、まづはじめに訪ねたのは祐泉寺でした。寺の門は木曽川の堤防下にあり、ぼくたちは裏から入つたことになります。境内には有名人の碑があるといふことでしたので、期待しましたが、坪内逍遙と北原白秋の歌碑は確認できたものの、「日本ライン」の名付け親でもある志賀重昻(しがしげたか)の墓碑と播隆上人墓碑と芭蕉の句碑はわかりませんでした。

祐泉寺の裏門のところは、小さな枡形になつてゐました。が、宿場の眞ん中にある枡形といへば、ぼくの記憶では、奈良井宿以來ですね。その他にもあつたでせうか、ちよいと覺えてゐません。で、その角には、舊小松屋といふ江戸末期建造の町家がありました。見學できるといふので、みなさんと一緒に入りました。土間のかたはらには、坪内逍遙や播隆上人に關する展示が竝び、土間を抜けた裏は土手に面してゐて、小さな坪庭がありました。それは、加茂農林高等學校造園科の生徒たちによつて作られた、「望川亭」と名付けられた庭だといふのですから感心してしまひました。「中山道太田宿からの眺めを縮景した庭園」だとありました。

 

とても餘裕のある家であり、また太田宿が文化的にも豐かな宿場であつたことを感じさせられました。ところが、そこで感じ入つてゐてはいけないのでした。次々に現れたのです。いや、お化けではありませんよ。永楽屋さん、辰巳屋さん、そして、渡り廊下がある御代櫻酒造さんなど、そして眞打ちが林脇本陣跡でした。

正しくは、「国指定重要文化財 旧太田脇本陣林家住宅」と言ひます。明和六年に建てられ、本陣の豫備として、本陣と旅籠をかね、また尾張藩勘定所をつとめ、さらに商取引を行つてゐた大きな家だつたんですね。

しかし、見學できたのは、その脇本陣の建物ではなく、そのまた脇の「隠居家」だつたんですけれど、それでも、先の舊小松屋さんとは比べものにならないくらゐご立派でした。土間に面してゐる部屋部屋の美しいこと、物を置かない和室本來の姿を見せてくれてゐます。案内の女性に從つてすすむと、そこは中庭で、水琴窟がありました。つまりお手洗ひですよね。それすら美しいのですから、ぼくはやはり日本の家屋にはぞつこんですね!

 

ところで、この脇本陣で、舊小松屋さんでみた播隆上人が亡くなられたさうです。ぼくは知りませんでしたけれど、上人は日本アルプスの槍ヶ岳を開山した方なんださうです。

 また、板垣退助をご存知でせうか。この方を知らないなんて言はせませんが、もし知らないとしたら、う~む、それは、我が國の歴史教育がいかに杜撰で、いい加減で、淺薄きはまりなく、我が國の文化や傳統に無關心で、それでゐて美しい日本を取り戻すなんてほざいてゐる首相や文部大臣や官僚、さらにまた御用學者たちの大々責任ですから、なんら引け目を感じることはないのですけれど、「板垣死すとも、自由は死なず」とおつしやられた方だと言ふことくらゐは聞いたことがあるのではないでせうか。

その板垣さんもここに泊まられたのです。いや、宿泊していただいたから、箔が付いたなんて言つてはいけません。「自由は死なず」の板垣さん、實は、泊まられた翌日に岐阜で暗殺されてしまつたからです。明治十五年四月四日のことでした。自由の闘士が志しを果たさずして冥界へ旅立つてしまつたことは、この國の損失であつたと思はざるを得ません。

では、本陣はどうなのかと言ひますと、何も殘つてゐないと言つてもいいくらいなものです。ただひとつ、例の皇女和宮さんご通行のときに新築された「表門」だけが見られる遺構ださうです。脇本陣が壮大でしたからね、本陣は想像を絶する建物だつたのではないでせうか。

 

さあ、太田宿はもうこれで、と思つたのがまた早とちりでした。次に、「太田宿中山道会館」が控へてゐたのでした。これまた充實してゐました。まる二年にわたつて中仙道を歩いてきましたが、これほど規模の大きな、また廣い土地を存分に用ゐた施設があつたでせうか、と思へるほど立派でした。まづ、駐車場からして廣く、中庭のやうなイベント廣場もせせこましくなくてよかつたです。そして、大きな榎木とそれに寄生するヤドリギが、またちやうど飾り付けたやうなのです。一見は百聞にしかずですよ、これは。

もちろん、中の展示室が見事でした。手が込んでゐたですね。宿場關係とは別ですが、〈江戸のあかり展〉が印象的でした。有明行灯やら折畳式携帶燭臺、それに小田原提灯の實物を拜見できました。ぼくは、千兩箱があつたので持ち上げてみましたが、いやあ、これを持つては逃げられませんね。泥棒になんかなれないと思ひました。

さらに、中庭の片隅、土手際に岡本一平が暮らしてゐた家、「糸遊庵」が移築されてありました。この地に疎開して、そのまま昭和二十三年に亡くなられたんださうです。岡本かの子の夫であり、岡本太郎の父親ですよ。それにしてもいい家ですね。ぼくなんか憧れてしまひます。



やつと太田宿をあとにできたのは、結局九時半でした。大きな枡形の角を左にまがりましたが、そこに、「右關上有知 左西京伊勢」の道標がありました。右へ北上すれば、關市を通り、郡上八幡へ至るんですね。關市は刃物の生産地で、大昔訪れたことがありました。また關市には、あの篠田桃紅さんの美術館があるんです。妻は行つておいでよと言つてくれるんですけれど、今回は無理ですね。はい。

ついで右にまがり、橋にかかつた國道41號線をくぐり、さらに左に曲がる角に虚空堂が建ち、太田宿西の出口であることを暗に示してゐました。また、「是より左京道」と彫られた自然石の道標が重々しくていかつたです。左手は土手で、上がれば木曾川の流れが目に飛び込んできました。さう、このあたりは「大井戸の渡し」があつたところで、さらにさかのぼれば、承久の亂の大井戸の戰ひがあつた戰場のやうなのであります。川の流れと時の流れとともに、すべてが歴史のかなたへと押し流されてしまふ、なんてふと思ふのでありました。

  

太田宿をはづれると、美しいけれども單調な堤防の上を黙々と歩きつづけました。正しくは現在の國道21號線が街道なんですが、歩道もなく、しかも雨降りですから、危險をおかすのをやめて、平行する堤防の上をたどりました。有り難かつたですよ。雨の木曾路のあの苦しさ、走り抜けるトラックの水しぶきを浴びなくてすむだけで滿足でした。

いや、それにもまして素晴らしい景色です。日本ラインの流れと向かひに聳える奇岩に富んだ山を眺めながら黙々と歩き通しました。

途中、國道上に立てられた取組の一里塚跡碑を遙かに見やり、「行幸公園」でトイレ休憩。その目の前に聳える、鳩吹山をふくむ山竝みの景觀はそれこそ絶景としか言ひやうがありません。「日本ロマンチック街道」の景勝地ださうです。たくさんの宮樣や天皇まで訪れたのは當然でせう。それで、「行幸公園」と名づけたのがぼくは氣に入りませんね。それこそ箔をつけたがりやのお役人が名づけたんでせう!

 

目の前に、山が立ちはだかるやうに迫つてきました。いよいよ日本ラインも見納めです。ふと目を向けると、頂上に、雲に霞んでお城が見えるではありませんか。さう、あれが織田信長によつて落城した猿啄(さるばみ)城址ですね。いつたいどこから登るのかわからないほど屹立してゐます。きつと、裏からはなだらかな道があるんでせう。こちらはなんて言つても木曾川がぶつかる崖であります。

その崖下にやつてくると、岩窟に岩屋觀音がへばりつくやうにして祀られてありました。みなさん、神佛の前に立つとやをら元氣になるんです。やはり効き目といふかご利益といふものがあるんですかね。ぼくも一緒になつて、眞つ暗な洞窟に入つてみましたよ。

 

その後しばらく木曾川と國道とJR高山線にはさまれた街道をすすみました。途中、列車がやつてきていい寫眞が撮れました。ぼくは、神佛より、鐵道のはうが元氣がでてしまふんです。これは内緒ですけどね。

やをら、その國道と鐵道線路をくぐつて右手の山の中に入りこみました。突然ですが、これより先は、木曾川に崖が迫り、その昔は街道が通つてゐたさうですが、あまりに危險なので、鵜沼宿まで山越えの道に付け替へられたさうです。

この山越えの道を「うとう峠」と言ふんですが、あの聖母マリア像のあつたのは謠坂でしたが、こちらは疎いのうとう坂のやうです。今回唯一の峠ですが、やはり嚴しいものがありました。

 

なんと上りつめたところには、道路が通り、向かひは團地ですよ。かういふのは興ざめですね。疲れがどつと湧き出してきました。そこに江戸から一〇〇番目のうとう峠の一里塚があり、休憩場所もあつたので、ほつとして休むことができました。

あとは下るだけ。一氣に鵜沼宿までと思ひましたが、今回は途中でゴール。そのまま名鐵犬山線の新鵜沼驛まで歩いてストレッチ。そこにバスが待つてゐて、成田山別院で晝食。その後犬山城を訪ねて見學。雨に霞んだ木曾川と見知らぬ土地をながめるのも一興でした。

今日は二〇八六〇歩。二日合計で三八八三〇歩でした。名古屋驛發四時二七分、新横濱驛と品川驛で降りた方もをられ、東京驛には一八時一〇分着。北口改札口を出や否や解散といふのがさつぱりしてゐていいですね。「ひげ日記」での報告はこれでおしまひ。

 

今日の寫眞・・太田宿脇本陣と中山道会館の大榎。それと、日本ラインと高山線、犬山城遠望とその天守閣にて。




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