二月一日(水)戊午(舊十二月廿三日 晴、少し暖かい

今日も一日讀書三昧で過ごしました。またそのあひ間をぬつて、机とパソコンの周りに積み重なつた、南北朝關係や西行などの本を書庫に運び、多少整理もしました。なかなか計畫してしてゐるやうに分類分けができてゐないので、同じ本を再度買つてしまつたりが、ここのところ多いのです。

また、とてもよい日差しなので、野良猫の寅に氣をつかひながらも、ふとんを干すことができました。りんぼう(林望)先生は、「南向き信仰は農家の発想」として、「読書というのは、日のあたらないところで、安定した人工光線によって読むのがいちばんです」なんて言ひ、洗濯ものも日陰で充分であるといふ方ですが、ぼくは「農家」の血を引く人間だからでせうか、讀書だつて日向ぼこしながら、ぬくぬくと讀むのが最高と思ふのですがね。

さういへば、ドイツの愛ちやんの家に泊まつた時に氣がついたんですが、洗濯物は、大きなマンションの薄暗い駐車場のやうな所に干してゐました。ちよいと驚いた記憶があります。なぜならば、マンションといつたつて、廣々とした田園地帶の中の集落に、それも十分な間隔をおいて建てられてゐるんです。回りには樹木も多く、太陽だつて燦々と照り輝いてゐたからです。景觀のこともあるんでせうが、習慣なんでせうか?

 

今日の讀書・・ヨハネス・ラウレス著『きりしたん史入門』(エンデルレ書店)を讀み終りました。ザビエルが日本にキリスト教を傳へてから、島原の亂をもつて我が國が鎖國にふみきつたところまでの時代をほぼ理解することができました。

面白いと思つたのは、以上の〈きりしたん史概要〉の章に加へて、〈きりしたん史上の諸問題〉と題して、「きりしたんに對する偏見の再討」を述べてゐるんです。この本が出されたのは、昭和二十二年七月です。明治、大正、いや、江戸時代を通してつくられてきた、きりしたんに對する偏見を取り去つてもらつて、あらたなるキリスト教傳道への道備へをなさうと試みたのではないかなと推察いたしました。

ひと言でいへば、宣教師を日本へ送り込んだポルトガルとイスパニアには、日本を侵略して植民地化する意圖などはなかつたといふことを言ひたかつたんだらうなと思ひました。いくつもの實例を出して語つてゐます。たしかに、きりしたんに對する偏見の大本ははそこから來てゐると思はれるからです。しかし、それがつくられた偏見であることは、今日の歴史學では常識でせう。にもかかはらず、心の隅で思つてしまふのは、權力が、諸藩を押さへるために、きりしたんを國家の敵として彈壓し続けたからだと、ぼくは思ひます。實に都合よく利用したんですね。

それと、これも古本屋で、函も表紙もないかはりに捨て値で手に入れた、村井早苗著『天皇とキリシタン禁制 「キリシタンの世紀」における権力闘争の構図』(雄山閣出版)を出してきて、その一章から三章と、〈まとめ〉を讀んでみました。いやあ、目から鱗が何枚落ちたことでせう。ラウレスさんのご意見が、如何に控へめであるかが一目瞭然でした。

「キリシタンの問題は、本来、宗教上の問題であったはずである。しかし排耶僧たちは(注)、キリシタンを宗教問題として克服することをある意味では回避し、「国家の敵」を排除することにすりかえてしまった。・・ここに幕藩制下におけるキリシタン禁制の苛酷な実施と、それを梃子とする厳重な宗教統制は、人々の宗教意識の発展を極端に封じこめるものとなり、人々は自らの宗教的救済を求めて苦闘せざるを得なくなるであろう。そしてこの宗教意識の抑圧の中心に、天皇・朝廷は位置していたのである」。

一つつけ加へますと、最初にキリスト教布教の許可が出されたのは、一五六〇年、室町幕府將軍の足利義輝によつてであり、その布教許可をくつがへして「宣教師追放の綸旨」を出したのが正親町天皇でありました。一五六五年のことです。

注・・「排耶僧」とは、キリスト教を憎んだ僧侶たちのことです。その切つ掛けは、宣教師から男色を非難されたことでありました。

 

今日の寫眞・・中仙道の細久手宿と御嶽宿との間を歩いてゐて出會つた聖母像。以下は、寫眞正面左の説明板の前半です。

「平和の像建立趣旨  昭和五十六年三月、謡坂地内で道路工事中にたまたまキリシタン信仰の遺物が発掘されました。その後の調査で、小原・西洞・謡坂地内で、数多くの貴重な遺物が相次いで發見され、この地に多くのキリシタン信者が居たことが判明し、歴史上大きな資料ともなりました。幕府の苛酷な弾圧の中で発覚もせず、ある期間信仰が続けられたのは、奇跡であると想います。・・・」。


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