二〇一五年二月(如月)一日(日)戊申(舊十二月十三日 晴、風が寒い

たうとう最惡の結果になつてしまひました。ぼくは、誤解を恐れずにいへば、殺害された本人は自分の死を迎へたのだらうと思ひます。あくまでもテレビで知り得ることですけれど、あれだけ自己責任だといふことを言はれてゐたんですから、あきらめはついただらうと思ふしかありません。彼が、どのやうな人間であつたかは、實は問題ではないのです。

殺害されたご本人には氣の毒としか言ひやうがありませんが、ぼくは、やはり軽率だつたと思ひます。自己責任で死ぬんだから本人はそれでいいでせう。問題は、その死がどのやうに利用されるかだと思ひます。だから、親族にしろ、關係者にしろ、助けてやつてくれなんて騒いではいけないのです。彼の自己責任を尊重すべきだつたんです。

騒げばどういふことになるか、首相の發言を聞きましたか? イスラム國に屈せず、この種の邦人を救出するために軍備を増強して自衛隊を派遣するんだとまで言ひだしたんですよ。國民の無念の思ひを晴らすためにといふいい口實を與へてしまつたではないですか!

これは明らかに我が國を戰爭に卷き込む愚かな行爲としか思へません。このやうな口實を與へたことを、ぼくは悔やみます。殺害されたご本人のみならずわが祖國のために悔やみます。そもそも、こんな愚かなといふか狡猾な首相を選んだことが悔やまれます。

 

勘ぐれば、これらすべてが、軍擴への布石だつたかも知れません。イスラム國の敵の味方であることをことさら振りかざして憎しみを起こさせたこと。そのことによつて、すでに捕らはれてゐた人質の命を危険にさらしたこと。そして、殺害されればしめたもので、國民の憎しみを惹起し、それをテコにして、軍備増強、自衛隊の海外派遣をはかる。まるで軍國主義ではないですか! そのために、殺害された方々は利用されやうとしてゐます。

なぜならば、權力は死者を巧みに利用するからなんです。歴史を學べば一目瞭然です。昨日讀んだ、『鳥の歌』の〈楠木正成と近代史〉の章の中で、丸谷才一さんが實にうまいことを言つてゐるんです。ぼくは、目から鱗が落ちましたね。

「京極純一氏は、昭和十六年(一九四一年)の日米交渉の際、その条件の一つである中国大陸からの撤兵について、撤兵しては英霊に申しわけないといふ理由で陸軍が拒否したことに注目してゐますが、これは一国の運命が宗教的感情、あるいはすくなくとも伝統的宗教感情の型へのよりかかりによつて決せられた、重要な一例でした。つまり、日米開戦は御霊信仰のせいだつたのだ、と言つても誤りではないでせう」。

靖國神社も同類です。英霊をただ祀つてゐるだけではないんです。いつでも戰爭できる口實として待機させてゐるんですね。安らかに眠らせてはくれません。權力は、生きてゐる人間はもちろん、死者までも利用して、その骨まで、いや霊魂までしやぶるつもりなんです。

ぼくは。國家に利用されない、一人の人間として、穏やかな最期をどのやうに迎へられるだらうか、眞劍に考へてゐます。

 

あッ、ヴァイツゼッカーさん、亡くなられましたね。つい最近、その演説集、『言葉の力』(岩波現代文庫)を紹介したばかりでした(正月廿一日)。その言葉を復習したいと思ひます。

「(過去の出來事を)思い浮かべるということはすべて、われわれ自身の現在の行為です。われわれの視点、疑問、方向づけへの探求は、この現在に規定されております。今日の要請に応えるために、過去を繰り返し理解し、解釈し直すのです」。

歴史を學ぶといふことは、現在の要請に應へるためになされるべきであることを敎へてゐますね! それは、よりよい將來のためだけではなく、より悲慘な將來にしたい輩にもいへることです。だから、ぼくたちは、どういふ將來を築いて行きたいのかをもつと眞劍に考へないと、權力者の言ひなりの最惡の國にされてしまふ可能性をも秘めてゐるんです。御用學者に負けないやうに、歴史家さんたちも象牙の塔に籠もつてゐてはならんと思ふのですが。

 

今日、「中仙道を歩く」旅友から、次のやうな「宿題」が持ち込まれました。ぼくは、どうも散文的な思考しか持ち合はせてゐないので、大變困つてをります。賞金も賞品も出せませんが、お知恵をお貸しくださいませ。よろしくお願ひいたします。

なほ、二月九日までにお知らせくだされば幸ひでございます。 

 

           記

虫食い川柳

隅っこの□がうるさい縄のれん        久春

ひとつずつ荷物を捨てて□になる      西秋忠兵衛

美しい村から□がいなくなる         春日井五月 

 

□内をそれぞれ一字で二音の漢字で埋めてください。ヒント 何かのグループの一員です。

 

今日の寫眞・・丸谷才一著『鳥の歌』(福武文庫)とヴァイツゼッカーさんの演説集、再録。



今日の補足・・知人から、「後藤健二さん救済緊急署名のお願い」といふ要請をいただいたので、今日のこの「日記」を、メールに添付してお送りしました。確かに、殺害された方は立派な方なんでせう。しかし、そのことを訴へれば訴へるほど、權力に利用されやすくなり、そして、足下をすくはれてしまふのです。

ぼくは、本人の自己責任を尊重して、ぢつと騒がずにゐることが、むしろ無言の力になつたのではないかと思はれて仕方ありません。彼を「御霊」にしてはいけないのです。彼自身はキリスト者だつたかも知れませんが、靖國神社を見ればわかるやうに、キリスト者もなにも本人の信仰など無視して合祀してしまつてゐます。みな御霊にされ、その恨みをはらしてあげるといふ口實のもとで、利用されるのです。


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