正月廿七日(火)癸卯(舊十二月八日・上弦 雨、のち曇り

 

今日は「中仙道を歩く」の第二十三回です。大井宿から御嶽宿まで歩く豫定です。

朝、起きたら本降りの雨でした。上野でも、新宿でも雨でしたが、中央自動車道の八王子あたりで朝日が差しはじめ、山あいに入るころには青空となりました。しかし、途中、霧で視界不良になるところもあり、恵那山トンネルを出ると厚く雲が空をおほつてゐました。でも、豫報では降ることはないやうなので安心しました。 

恵那インターでおり、恵那峡の山菜園で晝食後、恵那驛近くの公園でストレッチ、いよいよ出發です。參加者は二十四名。リーダーは山寺さん、添乘員は高橋さんのおなじみのお二人です。

一二時四〇分に歩き出し、商店街となつた街道を進みました。まづは、珍しい犬矢來の設けられた舊家の中野村庄屋の家の前で説明を受けました。

つづいて西行硯水公園といふ、小さな公園で一休みしましたが、とても暑くなつてきましたので、みなして服を脱ぎました。

中央本線の踏切を渡り、中央自動車道の下をくぐり抜けると、小山の麓にさしかかり、すぐ坂道になりました。石畳です。「是より西 十三峠」といふ道しるべにしたがつて急な坂を上ると、西行塚がありました。

西行さんがここで亡くなつたといふ塚ですが、ここらあたりには西行さんにまつはる傳説がいくつもあるやうなのです。どう言ふわけなんでせうか、調べてみたいと思ひます。

さて、十三峠なんてありましたが、數へ方によつては、二十の峠、といふか坂があるんださうです。一應確認しつつ歩いてみました。本日のところは、西行坂にはじまり、槇ヶ根坂、亂れ坂、お繼原坂、紅坂、平六坂に黑すくも坂でした。名前の由來は、よく分からないもののはうが多いです。

その他、この十三峠には、一里塚が原形をたもつてゐて、嬉しくなつてしまひました。今日のところは、槇ヶ根一里塚に、紅坂一里塚の二つでしたが、まだまだあるさうです。

大變驚いたのは、下街道との追分です。「右西京大阪 左伊勢名古屋」と刻まれた大きな石標が建てられた分れ道であり、明治天皇一行が、ここから中仙道を別れて、多治見を經て名古屋方面へと向かはれた街道です。なぜ、天皇一行がここから中仙道をはずれたかがわかつてきました。

また、上つては下りまた上るこの峠道には、たくさんの「跡」がありました。立場跡や高札場跡や茶屋の跡はもちろん、姫御殿跡とか、下座切場跡などといふ、何だかよくわからない跡もありますし、夫婦岩跡、矢場跡なんて、何なんでせう。山の中ですよ!

さらに、芭蕉句碑群なんて言ふ、たくさんの句碑が勢揃ひした神社もありましたが、特に不思議だつたのが、佐倉宗吾郎碑があつたことです。今の千葉縣の人でせう。どうしてなのか、きつと、理由があるはづです。

そしてそこが深萱(ふかがや)立場で、本日のゴールでもありました。三時二〇分到着。一二七九〇歩でした。

バスに揺られて向かつたホテルは、鬼石湯本館といふ、日本屈指天然ラジウム・ラドン温泉でした。今ごろこんなホテルがあるのかと思へるところだと、聞かされてゐましたが、まさしく「跡」にしてしまひたいやうなホテルでした。でも、温泉はたしかによかつたです。はい。

今日の寫眞・・十三峠入口。傳西行塚。槇ヶ根一里塚。下街道との追分に建つ、「右西京大阪 左伊勢名古屋」と刻まれた大きな石標。亂れ坂と書かれた石標。そして、一行の行進です。

 




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