正月廿四日(土)庚子(舊十二月五日 曇り

 

『浪合記』(古典文庫)、讀みはじめました。これは、購入した年月日を書き忘れたんですが、鎌倉の四季書林で數年前に買ひ求めたのでした。内容などまつたくわからないままに、軍記ものだといふので集めてゐたんですが、これも、やつと日の目を見ることができました。

はじめの部分で興味深かかつたのは、元弘三年(一三三三年)五月のところです。年表には、「鎌倉幕府滅亡」とある月です。

「(土井)景連鎌倉(幕府)ヲ背テ新田(義貞)ニ屬シ、(桃井)義繁ト一所ニ同五月十五日武藏府中ニ戰フ。・・義貞鎌倉ニ攻入ル。・・同二十二日(北條)高時ハ葛ノ谷東勝寺ニ入テ自害ス」。約百五十年つづいた鎌倉幕府最期の場面ですね。はじめて見る名前が續々と登場してくるので、忍耐が必要となります。

さらに面白いのは、同じ年月日のところを、他の史書と比べて見ることです。鎌倉幕府滅亡の場面です。『史料綜覧』では、五月廿一日になつてゐます。「義貞ノ軍、極樂寺口ヲ破リ、鎌倉ニ入ル、諸口隨ヒテ潰ユ、尋デ、高時以下、悉ク自盡シ、北條氏亡ブ」。

『續史愚抄』では、「八日庚子。源義貞(新田)、應尊雲親王(還俗護良)令旨兵於上野。・・廿二日甲寅。源義貞攻入鎌倉。相模守入道高時、一族自殺於東勝寺。此日、鎌倉大略係兵火云」。

ついでに、『後鑑』を見てみませう。「八日庚子、此日。於關東新田小太郎義貞奉勅起義兵。理部若君千壽王馳屬義貞陣。・・廿二日甲寅、此日。鎌倉滅亡。北條相模守高時入道崇鑑以下悉自殺」、とあつて、以下、『太平記』からの引用が連綿とつづくといふ體裁になつてゐます。

 

問題は、『大日本史』です。「本紀第六十八 後醍醐天皇上」を見ます。「五月八日庚子、・・是日上野人新田義貞奉護良親王令、擧義兵、關東豪傑、爭先響應、・・・二十二日甲寅、新田義貞攻破鎌倉、北條高時伏誅、鎌倉平」。その結果、「八月五日、左兵衞督足利高氏賜名尊氏」と、後醍醐天皇の諱「尊治」から一字をとつた「尊氏」名を與へられ、何だか、足利尊氏だけが目立つてゐるんです。よほどその働きに感激したか、今後もよろしくといふ最大限のサービスのやうな氣がいたします。

たしかに、『後鑑』に出てくる「千壽王」とは、尊氏の三男、後の室町幕府二代將軍となる義詮で、この時四歳なんです。それを新田義貞とともに鎌倉攻めに參加させ、結局手柄を横取りしてしまふのです。義貞も義貞ですが、泣き寝入りするしかなかつたんでせうか。格が違ふといつたらいいのか、兵力の違ひを見せつけられたからでせうか。かういふことは、いつの時代でもあるんですね。

 

このやうに、史書によつて微妙に違ふところを見ていくと、何かが見えてくるといふことがあります。それを自分の言葉で言ひ表すことができたらしめたもんだとぼくは思ふのですが、肝心の『浪合記』を讀み進まなければなりません。

それなのに、『大日本史』が面白くて手放せなくなり、「本紀第六十八 後醍醐天皇上」につづいて、「本紀第六十九 後醍醐天皇下」の、後醍醐天皇の最期まで讀んでしまひました。

最後は天皇が吉野に逃亡し、再起をはかるわけですけれど、そこに、宗良親王も出てきました。「宗良親王起兵于遠江井伊城」とあり、井伊城が墓所となつたことを裏付けてゐます(ただ、その後も吉野に戻つたり、さかんに移動をしてゐました)。

またすごいのは、後醍醐天皇の死の前後です。「延元四年(一三三九年)八月十六日壬寅、崩于吉野行宮、年五十二」、の記述はまあいいんですけれど、天皇が遺したとされる言葉です。「朕身雖(うづめる)南山而神常望北闕」と言ひ、「左把法華經、右按劒以崩、群臣亦奉其言、不改服御、北面葬藏王堂之塔尾」と締めくくられてゐます。  

どうです。水戸黄門さんの編纂した『大日本史』の文面です。幕末の勤王思想に多大な影響を與へた書物ですよね。もちろん、『太平記』などの文獻を編纂したわけですけれど、後醍醐天皇のこの怨念といふか執念がすごいです。我が身は南山(吉野)にうづめるとも、神となつて北闕(北朝・幕府)をつねに窺つてゐるよ、といふのです。皇子たちが、天皇の霊が乘り移つたかのやうに、戰ひつづけたのがわかるやうな氣がします。

だから、ぼく自身訪ねてきましたけれど、お墓は北を向いてゐました。左手に法華經を持ち、右手に劒(つるぎ)ですからね。ちよつとゾクゾクとしたのはそのせいでせうか(昨日の寫眞参照。また『歴史紀行(七)京都御所・高野山・吉野編』にその探訪記があります)。

 

今日の寫眞・・二〇一二年四月五日の吉野山。南朝の皇居と如意輪寺。如意輪寺の裏山に後醍醐天皇のお墓がありましたが、まだ櫻が咲いてゐなかつたのが殘念でした。

 



今日の補足・・妻に、“夜のピクニック”に誘はれました。つれていきたいところがあるといふのです。八時五分に出て、九時五〇分に歸宅しました。ちやうど九〇〇〇歩でした。

行き先は、動物病院でした。しかもそれは足立區にありました。双葉中學を左折して、北に一直線に進むと、先日立ち寄つた上千葉砂原公園がありますが、さらに北に向かふと常磐線のガードをくぐり、あれ、弓道の齋藤さんの近くではないかと思ふ寸前のところに、妻が目指すクローバー動物病院がありました。

實は、ラムが亡くなつてから、我が家に野良猫が出入りするやうになり、それが生まれたての三匹の子猫だつたんです。近くの崩れかけた空き家で生まれたらしいのです。家の勝手口のわきに寢るところを備へてやり、食べ物も與へてゐました、が、飼ひ猫にしないまでも、去勢と避妊手術はしてあげるべきではないかと妻が言ひ出し、近所の「猫おばさん」と呼ばれてゐる方に相談したら、とても良心的な格安で處置をしてくれる病院を紹介してくれたんです。

たしかに、ラムがお世話になつた病院で言ふ費用の三分の一でした。昨日一匹、今朝も一匹、ワナの籠に入つた猫を妻がつれていつて手術をしていただきました。あと一匹ですが、捕まへられたらまたつれて行く豫定でゐます。

どうも、我が妻は、やるとなつたらきちんとやらないと氣がすまないやうなんです。ラムにもさうでしたが、お腹を空かしてうろうろしてゐる子猫たちを、見て見ぬふりはできなかつたんですね。ただ、警戒心が異常に強くて、うまく寫眞も撮れないんです。

 

今日の寫眞の追加・・「猫おばさん」と相談中の妻と病院の看板。以下、散歩中の風景。




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