正月十五日(木)辛卯(舊十一月廿五日 雨

 

今日は雨、昨年九月十九日から少しづつ讀んでゐる、上田秋成の『雨月物語』を、「靑頭巾」の途中から一氣に讀み上げてしまひました。といふのは、原文のくづし字がやうやく意味を同時につかみながら讀めるやうになつてきたからでもあります。

最後の、「貧富論」は、「金錢論」ともいはれるやうに、金錢をどのやうに考へるかといふ議論です。はじめのはうで、しかし、金錢・富貴をどう考へるか以前の問題として、ちよつと氣になつた言葉に出會ひました。

「かの佛の御法(みのり)を聞けば、富と貧しきハ前生(さきのよ)の脩否(よきあしき)によるとや。此ハあらましなる敎へぞかし。前生にありしときおのれをよく脩(おさ)め、慈悲の心専(もは)らに、他人(ことひと)にもなさけふかく接(まじ)ハりし人の、その善報によりて、今此生に富貴の家にうまれきたり、おのがたからをたのみて他人にいきほひをふるひ、あらぬ狂言(まがこと)をいひののしり、あさましき夷(えびす)こころ(あさましい野蛮な心)をも見するは、前生の善心かくまでなりくだる事はいかなるむくひのなせるにや」。

と、このやうに、前生の良きの報ひで富貴を得た人が、他人につらくあたるのは、その心はどんな報ひなのだといふ議論です。ぼくが思ふには、富貴は、確かに前生の良き報ひなのかも知れませんが、その富貴は、現世においていかに生きるかを試してゐるのだと、思ひました。ただ、前生の報ひに寄りかかつてはならないといふことではないでせうか。

大切なのは、現生を生きることです。如何に生きるかです。來生のためでもありません。それでは、すべてが嘘になつてしまひます。だから、この自分の人生を生き抜くしかないんです。本當にこれでいいのかと、問ひつづけながら、誰のでもない、自分の人生を生きることが求められてゐるんだと思ひました。秋成さん、けつこう嚴しい倫理觀を問題にしてゐるんですね。

また、次のやうな話、聞いたことありますでせうか。

「秀吉の志大なるも、はじめより天地に滿るにもあらず。柴田と丹羽が富貴をうらやみて、羽柴と云氏を設しにてしるべし」。羽柴秀吉の氏名がね! ぼくは知りませんでした。秋成さんの時代では常識だつたんでせうか?

つづいてのくづし字のお勉強の教科書は、植村和堂編『日本名筆観賞《かな》』(秋山叢書)にしてゐます。いろんな時代のいろんな人の「名筆」観賞をかねたお勉強ができさうです。

 

ぼくの讀書(八)・・前田英樹著『倫理という力』(講談社現代新書・二〇一〇年九月廿六日讀了)。これも、比較的最近讀んだ本です。ぼくは、この本に敎へられ、かつ勇気づけられましたね。秋成さんの倫理觀がでてきたので、ついでにこの本を取りあげました。

この本で倫理といつてゐるのは、とても今日的で、具體的な生き方なんです。一口で言ひませう。「人間には道徳などいらない、ものの役に立つだけで充分である」。何故なら、「私たちの社会は今、ものの役に立たない人間で溢れ返っている。恐ろしいのは、こういう人間ではなく、こういう人間を実に都合よく機能させる社会システムのほうにちがいない」。

ぼくの言葉に飜譯して述べますと、例へば、人間は、自らノコギリで木材をいかに正確に自分の手と體を使つて切るかを学習しながら、そのやうな生き方を切り開いていくか、それとも、電気ノコギリで木材をギーンと切つて、切れたからそれでイイヂヤンと、それでよしとする人生を歩んで行くかといふ問題を、前田さんは提示してゐるんです。

ノコギリは一つの例ですが、このやうに、自ら役に立つ技能を身につけ、といふことは、自分を築いていくことによつて、社會のシステムにいかに飲み込まれないやうに、しかも社會に役立つやう生き得るかといふことが、すでに倫理的生き方なんです。「〈心の学習〉は、〈物の学習〉によつてだけ可能になる」とも言つてゐます。うまく書けませんので、目次を書き出します。

第一章 してはいけないことがある

第二章 〈人様〉という考え方は重要である

第三章 約束はいかに守られるべきか

第四章 宗教にはどう対するか

第五章 ものの役に立つこと

第六章 在るものを愛すること                                               以上です

 

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