正月七日(水)癸未(舊十一月十七日 曇りのち晴

 

今日は、「石橋山古戰場を歩く」の旅でした。上野と新宿からはバスで現地へ。まづは、樂しいハイキングだつたとでも言つておきませうか。薄曇りの天氣で、風もなく、きはだつて寒くもなく、とてもいいハイキング日和でした。東海道本線早川驛近くの、さかなセンターを一〇時八分に出發して、根府川驛の南、江之浦漁港手前のみのやといふ大きなお土産屋まで歩いたのでした。

ぼく自身は、「源賴朝挙兵の地・石橋山古戦場を歩く」といふ宣傳文句に惹かれ、これなら、『歴史紀行 石橋山古戰場を歩く』が書けるなと思つて參加したのですが、實はこれは、元來は、《箱根山麓ベストハイク》といふ十二回連續のバスツアーの第十二回、つまりその最後のツアーだつたのです。「中仙道を歩く」とはまつたく違ふ顔ぶれで、今日參加した十五名のうち、中仙道でご一緒の方がお一人だけをられただけでした。

ですから、石橋山古戰場をめぐるといつても、ハイキングコース途中の史跡を訪ねるだけでした。まあ、箱根山中を逃げ回つた賴朝一行の足跡を辿ることまで期待してはゐませんでしたが、期待するぼくのはうが過剰なんであつて、訪ねた史跡についてはしつかりと見て回つてきました。

まづ、箱根細工發祥の地に建つ紀伊神社。「古く京都方面から木地挽き業が来往して開業したところ」といはれてゐます。早川の古社です。

つづいて、石橋の集落を越えた山の中腹に建つ、佐奈田神社。石橋山の合戰の先陣を仰せつけられた、佐奈田與一義忠(『源平盛衰記』では、義貞)が、壮烈にして無惨な討死をした場所です。ぼくたち一行は、佐奈田神社の裏から訪ねた形になつてしまひましたが、その表口の脇に「与一塚」がありました。

そして、長くて狹い急な苔むした石段を下りたところが、「ねじり畑」でした。佐奈田與一義忠が、平家についた大將、大庭(大場)三郎景親の義理の弟である、俣野五郎景久(景尚)と組んずほぐれつの組み打ちしたところです。ですから、正確には、與一の死に場所は、高臺の神社があるところではなく、この段々畑(現在はみかん畑)ですが、このあたりが石橋山古戰場の舞臺なのだなと、あたりを見渡しました。けれども、跡形もありません。

次に訪ねたのが、「文三堂」です。與一の郎党であり、主に從つてこれまた壮絶な討死をした、文三家安の墓です。小高い場所に小さなお堂が建つてゐました。

まあ、以上で、合戰の史跡めぐりは終了で、あとは景色のいいみかん畑の道をハイキングでした。きつと、撮つた寫眞の七割がたは、景色と鐵道寫眞ではないかと懸念してしまふほどです。ただ、歩きながらですから、いいところで列車が通過してくれるわけではありません。東海道本線を走る列車のはうが貴重でした。なぜなら、新幹線のはうが本數が數倍も多いのです。數分おきですね。餘計なことですけれども、これで何も起きないのが不思議な氣持ちさへいたしました。

根府川に到着しましたが、驛に行くわけではありませんでした。ぐぐつと下つて、根府川大鐵橋の下に、根府川關所跡と迦堂を訪ねたのでした。そして、海岸沿ひの國道をたどつてゴールのみのやさんに到着。時間は、ちよつと控へるのを忘れました。三時ころです、たしか? 歩數は、二二五二〇歩でした。

 上野には五時一五分着。食事は家に歸つてからいただきました。

 

今日の寫眞・・小田原城が見える景色が二枚。鐵橋の上を通過する東海道本線。見たことのない三輛編成の列車です。あとの三枚は、與一塚とねじり畑と文三堂。最後は、根府川大鐵橋の下の迦堂です。

 




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