正月五日(月)辛巳(舊十一月十五日・望 晴

 

新年早々車檢に出した車を取りに行つてまゐりました。場所は金町の水戸街道沿ひです。それではといふので、妻と、“夜のピクニック”ではない、“晝下りのピクニック”でもない、“晝前のピクニック”としやれて、歩いて、それも、柴又經由で行つてきたのです。

九時五五分に家を出て、お花茶屋では、昨年の“夜のピクニック”では見つけられなかつた、妻が高校生のときに勤めた曰く付きのバイト先を確認し、水戸街道を越え、靑戸で環七を越えて、高砂橋を渡りました。昨年五月の體力回復強化散歩(『東京散策紀行(前編)』)で柴又を訪ねたと同じコースです。柴又驛前の寅さん像には、一一時一五分に到着。七六三〇歩でした。

すごい人出でした。帝釋天まで行く氣にはならず、そのまま金町に向かひました。ほんとのこと言へば、ここでうなぎを食べたかつたんですけれど、妻はけんもほろろ、早く行くよといふことになり、タートルネックでは汗ばむやうな暖かい日差しのもと、歩くしかありませんでした。

ぼくもただでは起きません。そこで、地圖を取り出し、例の、賴朝が石橋山の戰ひに破れ、再起を期して、安房から鎌倉をめざした時に休んだと言はれてゐる、「鷺沼御旅館」があつた、古天神社を訪ねました。これは、今度の、「石橋山合戰紀行」に使へると思ひました。そんなことで浮かれてしまつたのでせうか、そこから道を間違へてしまひ、遠回りをしてやつと金町一丁目の三菱自動車に着きました。一二時一〇分、一二二〇〇歩でした。

 

歸宅後、それでも弓道場へ初稽古にまゐりました。弓友に、『歴史紀行』を年賀状代はりに差し上げるためでもありました。いつもより少なめの射數で今日は失禮して、早めに歸路につきました。

歸つたら、こんどは、弟と入れ違ひに、妹と娘の彩ちやんがきてゐました。いただいたお年賀が美味しさうないちごでした。

 

昨夜は、册子版を二十九名の方々にお送りすることができました。ひと段落です。

次は、石橋山合戰紀行です。このあたりは、いろいろな本で何度も通りすがりましたが、まともにといふか、細部を檢證したわけではありませんので、實に樂しみです。

 

今日の寫眞・・“晝前のピクニック”にて。ちよんまげをした家と鳥の巣がある家が珍しい。それと初稽古の樣子です。

 




コメント: 0