十二月廿八日(日)癸酉(舊十一月七日 晴れ

 

『歴史紀行三十九 中仙道を歩く(廿二)』、第一日目につづき、第二日目を書き進みました。まづ頁數が氣になるものですから、寄り道はもちろん、だらだら書いてはゐられないのです。二日目の落合宿あたりで、すでに十二頁ですからね。これではまた前後編に分けなければならないかも知れません。ちよつと惱んでしまふところです。

 

ところで、朝、パソコンのまえに座つて書きはじめようとしたら、妻が來て、いきなり「本」を差し出すのでした。「何を邪魔な」、とは思ひましたが、應答することは妻との間のお約束事ですから、顔を向けると、「孤獨死といふと、悲慘さが表立つてゐるけど、みな一人で死ぬのよね。問題は、早くいかにしたら、自分が死んだことが他の人に氣づかれるかなんですつて」と、切り込んできたのであります。はい。

 大變なのは、死んだあと、長いあひだ氣づかれないでゐることらしいのです。死體がその間どのやうに腐敗していくかはよくわかりませんけれど、それはそれは悲慘な情況なんださうです。それを避けるために、どうしたらよいかが、この本の眼目らしいのです。ああ、この本は、市川愛著『孤独死の作法』(ベスト新書)です。もちろん妻が借りた圖書館本です。

以下は、著者が引用してゐる、監察醫のお言葉です。

一 生を受けた者は死を待っている人。よって独居者は急変の際早期発見されるよう万策尽くすべし。

一 皆に看取られる死が最上とは限らない。死は所詮ひとりで成し遂げるものである。

一 孤独を恐れるなかれ。・・・自分のために生きると決意したら世の目は気にするな。

一 巷にあふれる「孤独死」にいわれなき恐怖を感じるなかれ。実際の死は苦しくないし、孤独も感じない。

さらに、理想の死は「孤独死」だと言つてゐます。さうは斷定しなくてもいいと思ひますが、ぼくのところなんて、母が逝けば、二人きりです。最後にはどちらかが「孤獨死」を死ぬことになります。このやうなことは、たまに話してゐるので違和感はありませんが、「早期発見されるよう」に孤獨に死ぬことまでは考へてゐませんでした。

アマゾンで、この本がいくらするのか開いてみたら、その他にも、『孤独死のリアル』だとか、『おひとりさまの終活―自分らしい老後と最後の準備』とか、『終活ハンドブック』とか、『ひとりで死んでも孤独じゃないー「自立死」先進国アメリカ』だの、關連本がたくさんあることを知りました。

さういへば、ぼくも、今朝の「東京新聞」の讀書欄で、秋山駿著『「死」を前に書く、ということー「生」の日ばかり』といふ本に興味を持つたのでした。死ぬまで、書き續けられたら本望でせう。旅に出られなくなつても、讀書の旅は死ぬそのときまでつづけたいと思ふ今日このごろなのであります。

 

今日の寫眞:死ぬときまでそばに置いておきたい、座右の書ならぬ、座枕の書。その一。ぼくに最初に文明批評といふものを敎へてくれた本。

 

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