十二月十九日(金)甲子(舊十月廿八日 晴れ

 

今日は旅の二日目。朝から晴わたつてゐます。が、またそれだけに氣温は低さうです。

八時二〇分、妻籠宿を出發。昨日散策した宿を通り抜けた所で、アイゼン(と言つても、山寺さんのいふのは、スノースパイクでしたが)を靴につけました。路面は凍つてゐます。ついでにぼくのひげまで凍つてしまひましたが、そんな寒さの中を、総勢三十五名は山道に分け入つていきました。

どこまでも上り坂です。サクサクと新雪を踏みしめるのは、普段味はうことのない感触であり感激です。

大妻籠の重厚な民家が建ち竝ぶ集落を過ぎると、八十一番目の一里塚跡が現れ、そこからいきなり深く雪の積もつた山道に入つていきました。つづら折りの坂道です。珍しい牛頭觀音に出會つたのはその途中でした。倉科祖社といふ曰くありげな祠を過ぎ、吉川英治『宮本武蔵』の舞臺となつた、武蔵とお通出會ひの滝を見物、外國人カップルとも出會つたのもこの付近でした。そしてたどり着いたのは一石栃(いつこくとち)立場茶屋でした。

そこは、かつて一石栃白木改番所があつた、明るくまぶしいくらいに輝いた休息場でした。みなさんお茶をふるまはれ、ぼくも漬け物をいただいてしまひました。それと、茶屋のおぢさんがいきなり木曽節を歌ひ出したのには驚くとともに、立場茶屋の歴史がそのままよみがへつたかのやうな、かつてない感動を覺えました。

またここでぼくはアイゼンに取り替へました。雪が深くなってきたのと、ここで使はなければ使ふ時はないだらうと思つたからでした。リーダーさんをおいてしばらくは先頭をきつて雪道を踏みしめつつ進みました。それがけつこうきつい坂でした。ながく單調な上りでしたが、その頂上が馬籠峠だつたのです。感激もひとしほ、長野縣とはお別れ、いよいよ岐阜に入つてまゐりました。ここまで一六六〇〇歩でした。

 

峠は標高八〇一㍍、しかし自動車道が通つてをり、いささか興ざめでした。が、眞向かひに恵那山が聳え立つのを見たときには許す氣になりました。またすぐに再び山道に入ったからでもあります。こんどはどこまでも下り坂です。サクサク新雪はなくなりました。森が開けると、遙か遠くに人家が見渡せました。馬籠にしてはいささか遠いかなと思ひつつもぐんぐん下ります。

一里塚がこのあたりだつたらうといふ所では立ち止まりました。ところが、みなさん、通り過ぎて行かれてしまひましたが、ぼくには落穂拾ひどころか見過ごしてはならない牛方行司の「峠之御頭頌德碑」を雪をかき分けて確認しました。『夜明け前』にも描かれてゐる、いはば勞資騷動で勝利した主人公、牛方の頭の頌德碑なのであります。

昨日の日記で觸れた十返舎一九の狂歌碑も確認し、悲劇の「水車塚」供養塔をも訪ね、くねくね自動車道を貫いてすすむ街道をさらに下りつづけ、たうとう恵那山を一望する展望廣場に到着しました。一休みしつつ、そこでみんなして大活躍してくれたアイゼンを取り外しました。

そこがまた馬籠宿の入口でした。集合場所と時間を告げられ、自由散策となりました。ぼくは馬籠脇本陣資料館と藤村記念館を見學し、妻籠宿脇本陣へ嫁いだおゆふさんの生家である大黒屋で、自分のためにひげ用の小さな櫛を買ひました。また『夜明け前』を思ひうかべながら、尾根の上に築かれた宿のやうすを身をもつて味はいました。ただ永昌寺には訪ねる時間がなくて、入口の石塔だけの撮影でがまんしました。

晝食後、さらに下りつづけました。馬籠城跡を過ぎ、藤村の父、『夜明け前』の主人公でもある青山半藏こと、島崎正樹を記念した「島崎翁記念碑」を見、「是より北木曽路」碑に出會つては、木曽路に足を踏み入れたあの時の氣持ちを思ひお越したりで、まはりの廣々とした風景に比して、忙しい思ひで歩みつづけました。

そこには、他に、八十三番目の新茶屋一里塚があり、芭蕉句碑があり、昔の國境、「信濃・美濃國境」碑もありました。

木々におほはれて薄暗い、十曲峠の長い長い石畳には細心の注意をはらひ、醫王寺とその境内にある芭蕉句碑も見、さらに、かつての東山道でもあつた飯田への道との追分の「飯田道道標」を確認し、やつと落合宿に到着しました。このあたりまでは左手に常に見え隠れしてゐた恵那山が、次第に後方に向きをかへて見えるやうになりました。

落合宿本陣跡を確認できたくらゐのあまりさへない宿を過ぎ、たいへん厳しい與坂を乘り越え、與坂立場跡からは坂をどこまでも下り、八十四番目の子野一里塚、覺明神社、塚の上に大きな櫻の木を圍むやうに林立する石碑石佛群、さらにまた尾州藩白木改番所を一つ一つ記憶にとどめながら、下つてはまた上る街道をたどつたすゑ、やつと見晴らしの良い臺地の際に出ることができました。その崖際には芭蕉句碑もありました。あの有名な「山路來て何や羅遊かし壽み連草」です。そつと顔を上ぐれば、遙か西方の山にまさに日が沈むところでした。赤く燒けた空がひときは廣々としてゐるやうに見えました。

降りる坂を茶屋坂と言ひ、下り終はつたところには實に大きな高札場が、聳えるやうに建つてをりました。目の前には市街地が廣がり、中津川が、木曾路と美濃路を結ぶ、文化的にも經濟的にも接點としての中心地であつたらうことが偲ばれました。中央線中津川驛には四時四七分到着。三一三九〇歩でした。

 

妻籠宿と馬籠宿を訪ねる人は多いのでせう。しかしその兩宿の間の峠を歩かれる人はさう多くはないでせう。ましてや雪の峠を歩かれた人はほとんどゐないといつていいと思ひます。今日は、その、貴重な體驗をさせていただいた感謝でいつぱいです。雪にもかかはらず決行してくださつたトラベル日本さんにもですが、にもかかはらず參加された全員の方々に敬意を表したいと思ひます。あぶないとか、危険だとかの言葉をもらした方は一人もをりませんでした。むしろ、みなさん喜々として雪山に臨まれたのであります。

いやあ、雪の妻籠宿と馬籠宿、そして馬籠峠越え、よき旅仲間を得ることができた、いつにじい經驗をさせていただきました。

 

今日の寫眞:昨日バスの中から撮つた御嶽山。一石栃立場茶屋。馬籠峠頂上にて。峠之御頭頌德碑。展望廣場にて恵那山を一望。大黑屋で求めた、我がひげ用の黄楊の櫛。「是より北木曽路」碑。「信濃・美濃國境」碑にて。十曲峠石畳道。

 





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