十二月九日(火)甲寅(舊十月十八日 晴れ

 

今日は、待ちに待つた「史策會」の忘年會。いや、歴史散策の例會でした。今回は、ぼくがリーダーで、谷・根・千界隈を散策しました。コースは、五月に體力回復強化散歩と稱して獨りで歩いた、谷中・根津・千駄木界隈の「紀行」とほぼ同じところを訪ねてまはりました。

少し早めに家を出て、ぼくは、日暮里驛から、根岸方面を探索しました。「台東区立 書道博物館」があるのを知つたので、訪ねようと思つたのです。驛から五分くらゐのところにありました。なんと、「子規庵」の目の前でした。そこも興味深かつたのですが、外から眺めるだけにして、博物館のはうへ入りました。また、譯ありで無料で入場できました。

ところが、そこは、「中村不折記念館」でもあつて、不折の作品とその人生を學ぶことができてとても勉強になりました。また、不折が中國から持ち歸つた、「漢字の歴史を一望できる資料」が山のやうにあり、その道の好事家にはこたへられないコレクションであると思ひました。でも、ぼくが期待したのは、書道のことであつたので、參考にはなりませんでした。

中村不折なんて、實ははじめて知りましたが、子規と知り合ひ、その新聞などに描いた一連の插繪の作品には魅了されてしまひました。ほとんどが鉛筆畫です。漱石や藤村の本の插繪も描いてゐます。とくに、明治時代の三陸大津波を描いた「插繪」が素晴らしくて、欲しいとも思ひましたが、販賣されてゐなかつたのが殘念でした。

 

午後一時、日暮里驛北口に「史策會」のみなさん集合。七人そろぞれ久しぶりの挨拶をかはして、歩きはじめました。御殿坂を上り、まづは本行寺を訪ね、一茶と山頭火の句碑、つづいて經王寺の門の戊辰戰爭當時の彈痕を見ました。五月のときは雨でしたので、今日はとても氣分よく歩けました。

次に、ぼくがまだ訪ねたことがなかつた、谷中の五重塔跡。これは、幸田露伴の『五重塔』の舞臺になつたところです。さらに、谷中墓地に入り込み、銅像が「彈」のために供出させられた川上音二郎の墓、高橋お傳の墓、御茶ノ水にニコライ堂を建立したニコライさんの墓、そして、德川慶喜の墓所にも足を運ぶことができました。

そこからは、ぼくのレシピに從つて、永久寺の假名垣魯文の墓、全生庵の、山岡鐵舟と三遊亭圓朝のお墓、さらに歩いて、臨江寺の蒲生君平の墓。最後に、根津神社におもむき、休憩をとりました。あとは、谷中銀座と夕焼けだんだんを經て日暮里驛のはづだつたのですが、まだ會食の時間にゆとりがあつたので、西日暮里驛まで、裏道を歩きました。その途中に「富士見坂」を發見したんですが、現在は見ることが不可能になつてゐました。そのそばの、諏訪神社の公孫樹が美しいのと、東の崖際からの景色がまた素晴らしかつたです。目の下には、山手線、京浜東北線、新幹線までもが一望できるのです。

日が陰つてきたせいか、寒くなつてきたのと、時間もよくなつたので、田端驛に急ぎ、「JR田端荘」に入りました。顔なじみの森さんのおかげで、にこやかに迎へられ、美味しいご馳走をたんといただくことができました。

次回は、春四月、大塚さんがリーダーで流山を訪ね、一茶と新撰組にちなんだ散策を豫定しました。歸宅してみたら、一六九八五歩でした。 

 

今日の寫眞・・「書道博物館」と不折の插繪(漱石の『吾輩は猫である』の插繪)。子規庵。それと、五重塔跡、德川慶喜の墓所と山岡鐵舟の墓。その他は、また後日に載せる豫定です。

 




コメント: 0