十一月廿七日(木)壬寅(舊十月六日) 快晴

 

朝、同室の川野さんにたたき起こされました。ぐつすり寝入つてゐたので、びつくりして目を覺ますと、「中村さん、御嶽山だよ」といふのです。何事かと、起き上がつて窓の外を見ると、まだ明けきれない空を背景に、御嶽山が目を覺ましかけてゐるんです。薄赤くその存在を露はにしかけてゐるんです!

いや、待ちに待つた瞬間がやつてきたんです。急いで着替へ、外に出て、しだいに明るく、そして太陽光を浴びて輝きをましてゆく御嶽山を仰ぎ、たつぷりと寫眞も撮りました。

いやあ、はじめの二日は終日雨! 「是より南木曾路」碑以來、前回、前々回に引き續いての雨でした。けれども、三日めの今朝は朝から晴れわたり、御嶽山をはじめて目の當たりに見ることができました。鬱憤が晴れるとはこのことをいふのかと、大ガツテンいたした次第でありました。

二日間お世話になつた「ホテル木曾路」をあとにして、十二兼驛に向かひました。なにせホテルは御嶽山の登り口にあたる、標高・・・・㍍にあります。御嶽山に登るには便利でも、出發地に到着するのには五十分かかつてしまひました。ちよつともつたいない氣がしました。

 

さあて、待ちに待つた晴れわたつた木曾路です。氣分は爽快、足の運びも快調です。

十二兼驛前でストレッチ後、きょうは、殿(しんがり)ではなく、リーダーの山寺さんと肩を竝べて歩きはじめました。「明治天皇中川原御膳水」碑を過ぎると、右下には木曾川が流れ、左には國道と中央本線が走る、いはば岨(そは)道にさしかかりました。つまり、山の切り立った斜面が木曾川に落ち来む、いはば崖ぎはの道ですね。

さう、島崎藤村の『夜明け前』の冒頭が思ひ起こされます。

「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、あるところは數十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帶を貫いてゐた。」

鐵道と國道を通したことによつて分かりづらくなつてゐるんですが、木曾の棧(かけはし)が連續してゐた難所だつたんです。羅天橋から、與川入口あたりまでが特に嶮しかつたやうです。決して上松宿の手前にあつたのだけが棧ではないんですね。

 

七十九番目の金知屋の一里塚跡は、このへんだらうといふていどのことしかわかりませんでした。しばらくすると、國道からそれ、大きな岩が頭上に落ちてくるのではないかと思はせる崖の下を抜け、中央本線のガードをくぐりました。すると、明るい空につつまれるやうな集落に入つて來ました。

そこが、三留野宿でした。ゆつたりとした氣持ちに誘ふやうな曲線をえがく町竝みをたどります。脇本陣跡の看板、そして、本陣跡の碑、そこにはまた、「明治天皇行在所記念碑」が建つてゐました。ところが、その翌年に大火にあつて、天皇が泊まつた本陣はじめ町の大半が燒失してしまつたさうです。

つづく等覺寺では、圓空佛に出會ふことができました。また、土石流の痕も生々しい橋を過ぎると、やがて桃介橋といふ吊り橋に到着しました。素晴らしい眺めの橋です。渡りきると公園があり、バスがすでに待つてゐました。公園からは、桃介橋を手前に、はるか中央アルプスの頂を見ることも出來ました。一一時一五分到着。一〇五〇〇歩でした。

三日間の合計は、約三十・五キロ。五六三八〇歩でした。

 

街道歩きは輕快そのもの、ものたりないうちにゴールに着いてしまつた感じでした。さらに、歸りのバスからは、御嶽山とともに姿を隠してゐた木曾駒ヶ嶽も、さらに権兵衞トンネルを抜けると南アルプス連峰が一に目の前に現れて、これまでの鬱々した氣持ちを晴らしてくれました。終はりよければすべてよし、といふことにいたしませう。

 

今日の寫眞・・御嶽山(はじめの四枚)。三枚目、左上の山頂近くから噴煙が上がつてゐます。まだ遺體が見つかつてゐない方々のご遺族には、まことに氣の毒ですが、登られたご本人たちに愛されたお山であつたと思ひます。たしかに美しい、雄大な山嶽であります。

つづいて、等覺寺の圓空佛と、黑く小さな道元禪師に、何故かお尻を向けてゐる裸婦像! 

木曾川にかかる、桃介橋。遙か彼方の山間に見える雪山は、中央アルプスの空木山と思はれます。さらに、歸路、バスの中から見えた中央アルプスの主峰、木曾駒ヶ嶽。さいごは、伊那の晝食會場から見た南アルプスです。

 





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