十一月四日(火)己卯(舊閏九月十二日) 晴

 

芥川龍之介の『義仲論』(筑摩全集類聚『芥川龍之介全集8』所収)を讀み終へました。やつとどうにかですよ! でも、最後のはうは十八歳の龍之介君の生の聲が聞こえてくるやうで、ぼくも興奮してしまひました。

その勢ひをかりて、『中仙道を歩く(二十・後編)』を書きはじめました。義仲を中心に、母小枝(さえ)御前、巴御前、それに兼光兼平兄弟に取り圍まれたお墓のある德音寺にさしかかり、そこで、ぼくの木曾義仲論を書きはじめてしまつたのです。いへ、大きなことを論じようとは思ひませんけれど、一應納得のいく義仲さん像を描けたらいいなと考へてゐます。

ところが、その『義仲論』の中に、「水戸の史家が彼を叛臣傳中の一人たらしめしが如き、此間の心事を知らざるもの、吾人遂に其餘りに近眼なるに失笑せざる能はざる也」とあつたものですから、その水戸の史家の『大日本史』を書庫から探し出して讀みはじめてしまつたのです。和本仕立てで、小宮山書店のガレージセールで、三册五百圓の臺の上にばら積みされてゐたのを全て買つてしまつたなかに、その「叛臣傳」がありました。久しぶりの漢文ですが、返り點がついてゐるので、讀みやすいのです。

『大日本史』は、南朝を正統としたりして、「幕末の尊王攘夷運動の理論的支柱となった」本ですからね、そもそもが勤王派の書物なんです。だから、後白河法皇と敵對した義仲を惡くいふのは當然なんですが、それを直に讀んでみたいと思つたわけです。

これは、中國の『史記』にならつた「紀傳體」の書物です。本紀、列傳などからなつてゐるんですが、その歴代天皇ごとの「本紀」の本文では、年表と同様に、年月を追つた事實の羅列です。ところが、「列傳」はまるごと人物傳なんです。それも、分類の仕方が面白く、后妃、皇子、將軍、歌人などはいいとしても、義烈、烈女、叛臣、逆臣などがあげられてゐます。義仲はその「叛臣傳」におかれて論じられてゐるんです。讀まざあ、ですね!

 

朝、パソコンを起こしたとたん、ATOKのお試し版の期限がきたといふ案内がありました。それで、以後購入しようとして、應答したんです、が、どうにもわからないのです。思ひ切つて、ATOKのサポートセンターに電話して問合せたんですが、言つてゐることがチンプンカンプン! 結局はアンインストールしてしまひました。もつたいないとは思つたんですが、その仕掛けといふか、どういふ仕方で使へるのかがどうしても理解できませんでした。なんで、さらつと使へるやうな仕組みではないんでせうかね?

 

今日の寫眞:ベランダから見た夕焼け雲。『大日本史』と、その叛臣・源義仲の冒頭。

 


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