七月卅一日(木)癸卯(舊七月五日) 晴れ、猛暑

『歴史紀行三十 中仙道を歩く(十七)』(長久保宿~和田宿)が仕上がりました。昨日脱稿してはゐたんですが、一應萬全を期しまして、本日、四十三名の方に、メールに添付してお送りしました。でも、何人かの人にはエラーが出てしまふのです?

たうとう「歴史紀行」が三十册といふのは感慨深いものがありますね。まあ、反響がどうであれ、自分の樂しみが第一ですから、これからも自分の興味と關心に正直に歩んでいきたいと思ひます。

それとまつたく關係がないわけではないのですが、考へに考へて、先日依された書評の件はお斷はりすることにしました。斷はることが苦手なぼくですけれど、今度ばかりは「ノー」と言つてしまひました。

 

昨日から、武田信玄を讀みはじめました。今までなら讀み流してしまふのですが、今回は、例の『史料綜覽』と見比べながら、史實との關係を確かめながら讀むことにしたのです。手ごたへが違ふといふのでせうか、俄然面白味が增しました。

 

夜のピクニック。今晩も歩きました。八時一五分に家を出て、歸つてきたのは一〇時一〇分、歩數も、八三三〇歩でした。

行きたいと思つたところは二か所、水戸橋と、昨日歩いた堤防の道です。綾瀨驛の方角ですから、通ひなれてゐる妻のリードで歩きはじめました。堀切中央病院のそばで堀切中央通りを西側にわたり、そのまま細い道をじぐざぐと縫ふやうに進みました。ちなみに、この病院は、妻の父親が入院してゐた病院で、忘れもしない、ここから直に自動車で伊豆の我が家へ連れていつたのでした。思へば、それが義父の東京との最後のお別れでしたね。

こすげ小學校のとなりの公園ではお祭りをやつてゐました。さらに、小菅交番前を渡つて小道に入ると、なんと粋な橋がかかつてゐたのです。たもとには「鵜乃森橋」とあります。そこから川沿ひに木製の遊歩道が通つてゐて、いい雰圍氣です。川といふよりお堀か用水路といつた感じですが、歸宅して調べてみたらびつくりしてしまひました。「古隅田川」だといふのです。何でここに隅田川なんでせう? 

昨年二月の「中仙道を歩く」の二回目の時に、荒川についてふれて、「當時は、關東平野は遊水地態で、つねに大河が離合を繰り返してゐたのです」と書きましたが、きつと、このあたりも、河川の流れは一定ではなかつたんでせうね。

ちよいと迷路のやうな道に迷ひこんでしまつたら、藥師寺といふ寺院にぶつかりました。そこに、「水戸光圀公の祈願寺」との看板です。さういへば、水戸街道はこのあたりを通つてゐたんですし、光圀さんが立ち寄つたとしても不思議ではないですね。ぼくが目指すのもその綾川にかかる「水戸橋」なんです。が、やつと辿り着いてみると、昔日の面影なんてもんぢやあありません。そもそも橋が、もとの水戸街道と直結してかかつてはゐないんです。工事中でしたから、元の通りに直すのかどうかわかりませんけれど、上を仰げば高速道路に押しつぶされさうですし、なまじひに思ひ出ある場所だけに、幻滅もまたひとしおほです。

橋をわたると、そこには木造の映畫館があつたのです。南綾瀨小學校からみんなと歩いて何回も映畫を見に來たものでした。忘れられないのは、「しいのみ學園」といふ映画で、武藤武敏さんが出演してゐた記憶があります。最後のはうでは、蒸気機関車が驀進してくるシーンがあつてはらはらしました。

問題はそこからです。綾瀨川を渡つてきましたから、荒川との間にゐることはわかりましたが、どうにも荒川の堤防に辿り着けないのです。東京都下水道局の「小菅水再生センター」が立ちふさがつてゐるんです。暑くて、この散歩でははじめてアクエリアスを買つて、妻と飲みながら道を搜し搜し歩きました。そしたら正覺寺といふお寺に遭遇したんです。それも、表の看板に、「史跡 県立小菅学校の跡 明治二年(一八六九年)小菅県庁において設立した、学制発布以前の公立学校として、都下教育史上貴重な遺跡で、当寺はその校舎の一部にあてられた場所です」とありました。いやあ、歴史ですね。迷つてよかつたです。

そこからは、どうにか荒川の堤防に上がることが出來て、昨日と同じ、いや今夜のはうが廣々としていいながめでした。美しい夜景です。川には、屋形船が何艘も浮いてゐました。遠くにはスカイツリー。さらに京成電車が、上流部には東武鉄道かJRか、または千代田線が光の帶のやうに過ぎてゆきます。

振り返ると、綾瀬川が右側から、荒川放水路が左側から接近し、ここからは竝行してともに東京湾へ流れ出ていくんですね。四日前が“朔”でしたから、細い月はすでに沈み、暗くてよく把握できないのが残念ですが、風は涼しいし、夜のピクニックは癖になりさうです。

 

今日の寫眞:鵜乃森橋と古隅田川。水戸橋と舊水戸街道。正覺寺と小菅学校の跡。堤防からの夜景と振り返つた綾瀬川と荒川。