七月(文月)廿一日(月)癸巳(舊六月廿五日) 曇天、時々日差し

『歴史紀行二十九 中仙道を歩く(十六)八幡宿~笠取峠』が書き終はりました。最後のところは、少し急いだ感がありますが、どうしても早く仕上げてしまひたかつたからです。これで、何か心の重荷が下りたやうで、ほつといたしました。

實は、急いだのは、お晝頃、藤卷隆敏さんから、半年ぶりにお誘ひがあつたからなのです。明日、また銀座で會ふ約束をしてしまひました。

 

次回、明後日の「中仙道を歩く(十七)」のために、近くのコンビニに資料をコピーしに行きました。そこで、ふと思ひ出したのは、さういへば、電信柱にこのあたりの海抜が記されてゐたんではなかつたか、といふことです。歩いてきたので、いつたん歸宅し、自轉車で町内を回つてみました。

ありました。けれどもそれは、海抜ではなく、荒川放水路が破れて氾濫したらどこまで水がくるかといふ標示でした。いやァ、考へたら恐ろしい標示でした。

 

ラム記念追悼散歩、だいたいいつものコースを歩きましたが、これからは少し遠くまで歩こうかと妻と話しました。

 

今日の寫眞:「ここは荒川のはん濫により3m以上浸水するおそれがあります」と書かれ、さらにその下には、「上の赤いテープの髙さ」とある恐ろしい標示。まあ、平屋は全部浸かり、二階屋も二階がどうにか水面上に顔をだすくらゐの水深です!