五月十六日(金)丁亥(旧四月十八日) 晴れ

『歴史紀行二十五 中仙道を歩く(十三) 坂本宿~軽井沢宿』を書きはじめました。写真も整理加工ができましたし、あとは書くだけですけれど、毎度のことですが、序文が長くなつてしまひました。

まづは、ワード版の作成です。これは、毎日書いてゐる、「ひげ日記」と同じ書式ですから、ついつい筆が進んでしまふのかも知れません。パワーポイント版にした時のことを考へると、あまりだらだらと書き流してもいけないかなと思つてはゐるのですが。

 

今日、先日注文した、萩原延壽の本が続けて届きました。『書書周游』と『自由の精神』です。早速手に取つて、後者の中の、「革新とは何か」にひかれて読みはじめたら、案の定読みやすく、述べてゐることがよくわかるのです。ただ、政治の分野に関しては苦手の部類に属してゐるので、危惧してゐたのですが、一九六五年に書かれたにもかかはらず、とても新鮮でした。

はじめに、我が国幕末の志士を例に出して、「わたしたちは、革新について考える場合に、脱藩(既成の価値からの離脱)=諸国周遊(異なった現実や思想との対決)という精神の方法を体現していた、この強力な歩行者のイメージを、たえず想い起してみる必要がある。」と、その言葉のもつグローバルな意味を評価してゐるのですが、現実の政治においては、「革新的であるということは、・・現在の変革を志向する精神態度だということだけである。」と、注意深く使つてゐます。

それに対して、「保守的であるというのは、『現存するもの、そして、現在利用できるものを、積極的に享受しようとする』性向である。」としてゐます。「とりわけ戦後の日本においては、敗戦という高価な犠牲を代価として獲ち得た貴重な財産(議会民主制、思想の自由、新しい憲法)」が、「守るべきもの」としてあり、保守も革新も、「現実の享受」にはすでに差があるとはいへず、革新は、やたらに保証のない「理想」を求める革命より、現状の漸進的な改良をめざすべきであらうと説いてゐます。

ぼくが重要に思つたのは、「絶対主義は、いかなる政治権力にも内在した一つの傾向でもあって、被治者による不断の監視と牽制がなければ、たえず自己を実現しようとする政治権力の鬼子である。」といふ指摘です。それと、イギリスの政治学者の、「政治には二つの憎むべき敵がある。一つは、人間の苦しみたいする無関心、・・」であるといふ言葉です。

ぼくは、誤解を恐れずに言へば、右も左もわが祖国であり、現在の諸政党のどこが政権を担はうと、みなが幸せに暮せるやうな政治がなされるならばそれが一番だと思ひます。それを踏まへた上で言へば、「人間の苦しみたいする無関心」な現政権、「敗戦という高価な犠牲を代価として獲ち得た貴重な財産」を放棄し、絶対主義に走ろうとしてゐる現政権を許すことができるでせうか。そういふ意味で、ぼくは、「不断の監視と牽制」を宗とする、革新的でありつづけたいと思つたしだいです。はい。

 

明日は、修善寺です。明後日の仕事のために踊り子号でのんびりと向ひ、温泉に入つて、美味しいお食事をいただいて、ゆつくり寝て、碓氷峠越えの疲れを取りたいと思ひます。

今日の写真:萩原延壽『自由の精神』とけふのラム。