五月十三日(火)甲申(旧四月五日) 雨、午にはやんで夕方には晴れる 

こんなに歩くはづではなかつたのに、気がついたときには、すでに一万歩近く歩いてしまひました。そもそも、雨が降つてゐたので、切符だけ買つたら帰ろうと思つてゐたんですけれど、欲ばりといふか、もつたいないからといふか、ついつい歩き出してしまつたんです。

ぼくはワケありで、有難いことですが、JR一〇〇キロ以上は乗車券が半額になるんです。一〇〇キロ以下では、一人では割引がききませんが、同伴者がゐれば、どんな距離でも、二人で一人前の料金、つまり一人半額づつで乗車することができるのです。それは、しかし、みどりの窓口でなければ購入できませんので、ぼくはいつも日暮里駅に行つて買ふことにしてゐるのです(近場の場合は、切符販売機で子ども二人の料金ですますこともできます)。

さて、日暮里駅で切符購入後、谷中銀座方面に向けて歩きはじめました。まだ朝の九時半です。お店やさんはまだ営業してゐない時間ですから、この際、お寺巡りをすることにしました。ぼくは今までもこの坂を上り、さらに夕やけだんだんを下つて、谷中銀座をへて、千駄木や根津まで歩いたことが何回もありますが、どういふわけか、お寺さん巡りをしたことがなかつたのです。きょうは、地図を見ながら、有名人のお墓参りでもしようかといふ気になつたのです。

駅舎を出ますと、雨脚が少し強くなつた感じですが、目の前が“御殿坂”です。江戸時代から呼ばれてゐた由緒ある坂のやうです。その坂を上りはじめた右手に、“本行寺(月見寺)”があります。いやァ、はじめから有名処ですよ。境内に入つたところに、大きな石に刻まれてゐるのは、一茶の句です。「陽炎や道灌どのの物見坂」。それと、その右手に、山頭火の句碑、「ほつと月がある東京に來てゐる」なんてのが建つてゐます。墓地の最奥には、かの戊辰戦争の際、徹底抗戦を主張した永井尚志の墓がありました。また、大田南畝さんも尊敬してゐた、市河米庵とその父、市河寛斎の墓もありました。

そして、次は、そのすぐお隣さんの“経王寺”です。このお寺の門には銃痕がいくつもあり、ちよつとビックリです。解説を見ると、「慶應四年(一八六八年)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、山門には今も銃弾の痕が残っている。」とありました。(注・・〈地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 其の十五 彰義隊の忘れもの〉所収の、「経王寺山門の弾痕之事」参照)

さういへば、大正から昭和のはじめにかけて、我が祖父母一家は、この辺りに住んでゐたはづです。当時の住所は、「東京市荒川区日暮里町参丁目弐百壱番地」でしたから、調べればわかることですが、なんだか懐かしい気がします。

さて、お寺が密集してゐる道を選んで、“経王寺”前を左折して進んでいきますと、ありますあります、右も左もお寺だらけです。“朝倉彫塑館”はパスして、その先の信号を右折します。道路の向かうのお寺の中に、何だか「案内板」が見えますので、近寄つて見てみませう。おやおや、“假名垣魯文墓”ではないですか。「聖観音を線刻した板碑がはめ込まれている」墓石の側面には、「遺言 本來空財産無一物 俗名假名垣魯文」とありますね! このお寺は、“永久寺”です。

続いて訪ねたのは、“全生庵”です。ここには、山岡鉄舟と三遊亭圓朝の墓がありました。先日の両国あたりでも、この二人の住まいは近くでしたね。よほど深い関係があつたとみてよいでせう。ただ、境内の大きな石碑に気を取られて、肝心のお墓そのものを訪ね忘れました。雨もたくさん降つてゐたので、気もそぞろだつたんです。

さあて、今日の一番の目的は、蒲生君平の墓です。宇都宮生まれで、のちに諸国の天皇陵を歩き、享和元年(一八〇一年)に『山稜志』を完成させた人物なんです。さういへば、日光街道を歩いた時、宇都宮で、「蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑」を見かけましたね。ぼくも、『歴史紀行二 古代天皇陵編』で、神武天皇から第三十七代斉明天皇まで一気に訪ねたことがありましたが、『山稜志』は、そのときの最も重要な参考書でした。彼は、「前方後円墳」の名付け親でもありました。また、高山彦九郎、林子平と共に寛政三奇人の一人と称された人でもあります。

“大名時計博物館”の先の坂を下つたところに、“臨江寺”がありました。が、門前に、「蒲生君平墓」と案内が建つてゐるだけで、境内、そして、墓地に入つても何の目じるしもありません。山岡鉄舟と三遊亭圓朝の二の舞になつてはならないので、隅から隅までくまなく歩いて回りました。たしかにありました。けれども、よほど注意深く見ていかなければ、短時間で探し当てるのはむずかしいでせう。

とにかく探し当てましたが、苔むす古色蒼然とした墓、墓、墓の中の一つにすぎませんでした。正面上部には、「蒲生君臧墓表」と刻まれてゐます。また、「墓には四面にわたって藤田幽谷の撰文」がびつしりと刻まれてありました。しかし、国史跡に指定されたにしては、まつたく手がかけられてゐないやうに見えました。さう、ここで一一時、五四〇〇歩でした。

以後は付けたり。裏道を通つて、ここもはじめての“根津神社”を訪ねることにしました。途中に、“根津教会”がありました。やや、なんと、裏門からと思つてやつてきたところが、実は正門だつたやうです。建造物はみな国宝で、大切にされてゐるやうです。

通り抜けると、根津裏門坂。腹がへつてきたので、その途中の夢境庵といふそば屋にはいりましたが、言ひたくありませんが不味かつた! 温かいそばと思ひ、鴨南蛮をたのんだところが、かたい肉にぼそぼそのそば。しかも、六百円かと思つて千円出したら、千六百円といふのです。ヒエーでした。ああ、いやだ、嫌だ!

でも、気持ちを入れ替へて歩きました。日本医科大学病院の脇を入ると、そこは、“夏目漱石の旧居跡”でした。こんどは、坂を下り、団子坂方向に進みましたら、森鴎外の旧居、“観潮楼跡”です。文人は、よほど住まひにこだはる人種のやうです。

団子坂に出て、下ると、不忍通りです。あとは帰るだけですが、開いてゐれば寄りたいお店が一軒あります。“古書ほうろう”です。だいぶ疲れてきたので、ゆつくり見ることはできませんでしたが、〈地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 其の十五 彰義隊の忘れもの〉と、〈谷根千・文人シリーズ②―谷中の円朝〉を買ひ求めました。

道灌山通りを西日暮里駅まで来たら、午後一時一五分、一〇三七〇歩でした。あと一息。千代田線で綾瀬駅、バスに乗り換へて、堀切五丁目下車。我が家には、午後一時四〇分着、一一二三〇歩でした。

 

今日の写真:谷中、根津、千駄木をめぐる。本文を参照してください。