五月四日(日)乙亥(旧四月六日) 五月晴れ

体力回復強化散歩の第三日。昨日は、博物館でだいぶ時間をとつてしまつたので、今日は歩くことに専念しました。そして、碓氷峠越えを考へてさらに早めに家を出ました。

九時一〇分出発。お花茶屋公園までは昨日と同じ道をたどり、そこからは、京成電鉄沿ひに、四ツ木斎場を通り越し、さらに水戸街道を越え、いつも弓道場へ向かふ道路を東進しました。途中に“青戸ボウル”があり、その次の角には、父がお世話になつた訪問医療の双泉会の建物が建つてゐます。父が健康な死を迎へることができたのは、ひとへにこの看護婦さんたちと医師、それに、東部地域病院の佐藤先生のおかげでした。改めて感謝の意を表したいと思ひます。

さて、環七通りに出ました。昨日歩いたところです。九時五五分、四〇七〇歩です。ここを右折すれば総合スポーツセンターに行きます。今日は、横断して直進し、高砂橋を渡ります。この橋からは、下流に、もともとの中川とその放水路の分岐点が眺められます。分岐点なんていひましたが、とうとうと水を湛へてゐて怖いくらゐです。

そろそろ目的地を明らかにしたいと思ひますが、この道をたどると柴又の帝釈天に到達するのです。そこは、南綾瀬小学校の、ぼくの記憶では、一年生の時に遠足に行つたところなんですが、今歩いてゐて、ほんとに歩いて行つたのか、ちよつと疑問に思ひはじめました。そのころは自動車は少なかつたでせうが、なにせ団塊の世代、人数が多かつたのですから、引率の教師とわづかな父母の協力だけで無事歩き通せたのかどうか、疑ふといふよりも、ぼくの記憶違ひなのかどうか知つてみたいですね。

さて、柴又駅前に着きました。一〇時四〇分、七四〇〇歩でした。ちやうど人並みがとぎれたので、ボランティアの方に、寅さん像と写真を撮つていただきました。あひかはらず帝釈天参道は混みあつてゐます。ぼくは、門前を左折して江戸川の土手に向ひました。

ありました、“川甚”です。なんだか前より大きな建物になつたみたいです。結婚に先だつて、ぼくと妻の両家族が顔合はせをした料亭です。それ以来入つたことはありませんです。

今日はほんとうに良い天気です。風もなく、それほど暑くもありません。土手にあがると、江戸川をはさんで国府台方面の緑が広がり、気持ちまで広々と、大きくなつた感じがします。ちやうど、矢切の渡し舟が出ようとしてゐたので、ぼくは例のワケありの通常の半額なので、飛び乗つてしまひました。

さうです、この矢切(のあたり)の渡しはとても古くて、あの平家打倒に立ち上がつた源頼朝が、石橋山の戦ひに敗れ、再起を期して安房に渡り、鎌倉の地をめざした際に、武蔵国へ入るときに利用した渡しだといはれてゐます。『吾妻鑑』の治承四年(一一八〇年)十月一日には、「鷺沼御旅館」(どのやうな施設なのかは不明です)に入つたことが記されてゐるんですが、この「鷺沼御旅館」は、現在の柴又八幡神社から古録天神社の間、柴又一丁目あたりに求めることができるさうです(谷口榮「柴又・矢切と源頼朝」)。

「武衛(頼朝)、常胤、廣常等の舟に相乘り、大井(江戸川)・隅田の両河を濟(わた)る。精兵三万餘騎に及び、武蔵國に赴く」。広々とした景色を眺めやると、今にも精兵三万餘騎が地から湧くがごとく、なんてことはないか? 

再び柴又の地を踏みしめ、柴又駅に直行しましたら、ちやうど十二時、一〇八四〇歩。来た電車に乗つて、昨日行けなかつた、四ツ木の魚政さんを訪ねました。びつくりするやうなお値段にして、びつくりするやうな長い時間待たされましたが、うなぎがこんなにもふわふわで口の中が火傷するくらい熱いものだとはじめて体験いたしました。ごちそうさまでした。

帰宅時間は、午後二時十五分、一三八四〇歩でした。

 

今日の写真:父がお世話になつた訪問医療の本部、双泉会。柴又駅前、寅さん像とともに。料亭 “川甚”。つづく五枚、矢切の渡し(その全景と「矢切の渡し」歌碑)。四つ木、魚政さんの“坂東うな重”。