四月廿六日(土)丁卯(旧三月廿七日) 晴れ

風邪が抜け切れません。妻も、今回はだいぶ熱が出てしんどいやうです。元気なのは母だけ、と再びご報告しておきます。

 

それでも、お勉強をつづけました。そして、芭蕉さんの、『更科紀行』を読んでしまひました。たつた六頁ですからね。ところが、期待はしてゐたんですが、ここでも肩透かしをくつてしまつたのです。

 嵐山光三郎センセは、だつて、『芭蕉紀行』の中で次のやうに書いてゐるんですよ。期待しないではおれないではありませんか。

 「姨捨山へ向かう途中に会田宿があり、芭蕉はこの宿の旧家に泊まった。・・いま四賀村はまつたけが採れる村として知られる。会田富士(虚空蔵山)のふもとにあり、村花である野生福寿草が咲く山里である。なによりありがたいのは、この村が芭蕉が歩いた時代の街道の面影を色濃く残していることである。馬籠や妻籠のように人工的にいじられていない。茅葺き屋根の寺子屋黒門屋敷があり、善光寺街道沿いの馬頭観音や松林にたたずむ藤池百体観音もある。入母屋造瓦葺きの楼門がある浄雲寺、会田氏の菩提寺である広田寺、十一面千手観音がある保福寺、弘法大師の開基となる洞光寺と、文化財だらけで、これほどの天然ムクの街道と村がありのまま残されているのが奇跡的である。芭蕉ファンは『奥の細道』へばかり行きたがるけれども、芭蕉が紀行した地が、そのまま色濃く残されているのが『更科紀行』である」。

どうです。いいでせう。また先日、ネットで、尾崎朝二著『私の旅日記 芭蕉の更科紀行をゆく』(出島文庫)を手に入れ、これがまた素晴しい写真集なんです。まだ、馬籠や妻籠も訪ねてゐないのに、浮気者とお叱りを受けるかもしれませんが、いやあ、ぜひ歩いてみたくなりました。

だからです。芭蕉さんの『更科紀行』そのものが、なんとも味気ないんです。旅をした情景なんてほんのわづかです。ぼくは、読んでゐて、地図でたどれたり、その景色が浮かび上がつてくるやうな文が好きですね。その点からいへば、「なんだよ、おいおい!」ですよ。お供が「越人」と「奴僕」、途中で出会つた惨めな「道心の僧」のお相手(これはこれで面白いんですよ!)、どこだか明瞭ではない「高山奇峰」と「大河」のながれ、地名といへば、せめて「桟はし・寐覚など過て、猿がばゝ・たち峠」くらいでせうか。

そして、肝心の、「さらしなの里、おばすて山の月」を見たのかどうか。それは作られた句を味はふしかないやうです。さらに加へて、善光寺から、江戸までの旅日記だつたらぜひ読んでみたかつたですね。

もちろん、芭蕉さんに期待したぼくのはうが無知だつたわけで、このやうに素晴しい善光寺街道を教へていただいただけでも得した気分です。はい。

ちなみに、『更科紀行』の善光寺街道は、中仙道の洗馬宿から分かれて北に、郷原宿、松本宿、会田宿、青柳宿、麻績宿、更科の里、善光寺までです。その善光寺から、上田宿、小諸宿、そして中仙道の追分宿までは北国街道です。

 

今日の写真‥けふのラムと『更科紀行』冒頭。