四月廿五日(金)丙寅(旧三月廿六日) 晴れ 

芭蕉の『笈の小文』を読み終へました。といつても、〈平野屋版〉の影印本では、すぐ続けて『更科紀行』に突入してしまふのです。でも、ちよつと間をおいて、芭蕉と杜国さんの事に触れておきたいと思ひます。

『笈の小文』、とくにその後半は、杜国との「禁断の旅日記」だつたと言ひました。「伊良古崎」で、杜国と再会したときの、「鷹一つ見付てうれしいらご崎」なんて、杜国さんを鷹に喩へて、情感迫るものがありますよね。さらに、次の文をどう読みますか。

「よしのの花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置きし人の、いせにて出むかひ、ともに旅寐のあはれをも見、且は我為に童子となりて、道の便にもならんと、自万菊丸と名をいふ」。杜国を伊勢に呼び寄せ、そこで名前を「万菊丸」と名付け、しかも、二人がかぶる笠に、〈乾坤無住同行二人〉と書いての、お忍び旅行のはじまりです。仏と同行といふ意味なんでせうが、ここではあきらかに芭蕉と万菊丸の二人といふ意味ですね。

ところが、読み進んでいきますと、おやおやです。仲睦まじい旅立ちにしては、まるでそのやうな昂ぶる気持ちを抑へこむかのやうな、かたい紀行文に変質してしまふのです。興味津々なのに、肩透かしをくつたやうな感じです。そして、それがたうとう須磨・明石の『笈の小文』末文まで続くのです。

もちろん、だからつまらないのではありません。「跪(きびす)やぶれて西行にひとしく、」にはじまる旅についての味はひ深い文章なんか、「声に出して読む名文」に数へ上げられるでせう。また、奈良唐招提寺の鑑真像を訪ねたときの、「御目盲させ給ふ尊像を拝して、」の句は、ぼくも目にしました。「若葉して御めの雫ぬぐはばや」は、このとき、杜国と二人で詣でたときの句だつたんですね。そこで、ぼくが訪ねた記録の、我が『歴史紀行 四 伊勢神宮・平城京編二』を開いてみました。ところがこの句碑の写真がないんです。でも、掲載を省いてしまつただけで、その他の中にはありました。ほつとしました。それにしても、その時ぼくは何を見てゐたんでせうね。

さて、どうにか気持ちを抑へるやうにして続けた二人の道行も、須磨・明石で限界だつたのでせう。旅はまだ続いたはづなのに、『笈の小文』は突然のやうにして締めくくられてしまふのです。ところが、『芭蕉書簡集』(岩波文庫)には、伊賀上野にゐる惣七(俳号猿雖)にあてた書簡がのこされてゐて、『笈の小文』の旅のまとめとも思はれる文面と、その旅が終つたあとの模様が詳しいのです。さらに、惣七に宛てた杜国の手紙もあるんです。それは、「(芭蕉との)ならの別れの悲しさ、はらわたをたつばかりに覚え申候」にはじまります。ぼくは何んともいへませんが、「精神的きずなを高める衆道関係」といふのもあるんですね。

さうだ、トラベル日本で、歴史探訪「おくのほそ道 笈の小文編」といふのが、二泊三日で計画されてゐたんです。ちやうどぼくは入院中で参加できませんでしたが、今、読み終へてみて、いつか訪ねてもいいなと思ひました。また、「奥の細道」の旅も計画されるかも知れません。でも、何んといつても中仙道です。これを完歩しない限り、ぼくの人生も中途半端で終はつてしまふと思ふのであります。はい。

 

今日の写真‥散歩風景。とくにますやさんの藤と鍋焼きうどん。それと、唐招提寺の芭蕉句碑。