二月廿七日(木)己巳(旧正月廿八日) 曇天、朝晩小雨 

北方謙三の『杖下に死す』が読み終はりました。うまい、と思ひました。大塩平八郎の乱を題材にした物語ですから、書き方によつては陰惨になる事件ですが、それをうまくかはしてゐることです。テンポがいいし、あと味もいいんです。

まづ、主人公を、江戸からやつてきた剣豪といふ架空の人物としたことで、読んでゐるぼくたちも主人公と同じ目線で、事件の顛末を見てゐる気持ちにさせてくれてゐることでせう。そして、男の友情です。これは、北方謙三の一連の作品のたいへん大きな魅力ですが、特にこの物語は、主人公(光武利之)と大塩平八郎の養子である、大塩格之助との友情がテーマであると言つてもいいくらいです。

それと、大飢饉のなかで救民を掲げた、正義の味方としての大塩平八郎の乱(天保八年二月勃発)が、実は、「当時の政治と経済の複雑な背景のもとでの陰謀に乗せられたのではないか」といふ解釈ですね。これは、さもありなんとうなづかせられるところです。

たしかに、『洗心洞箚記(せんしんどうさつき)』の譯注者による大塩平八郎の〈生涯〉の記述によると、二月十九日の決行日を前にして、「然るに十七日変節したるものあり、深更に跡部山城守(東町奉行)に密訴したるを以て其事露顕す。また変節して堀伊賀守(着任早々の西町奉行)に内訴状及び檄文を呈せしものあり」と、すでに何日も前に発覚してゐたんです。それを押しての決行ですから、何かに乗せられたといふ感じです。つまり、幕府内の権力闘争に利用されたのではないかといふわけなんです。

続けて、『独り群せず』を読みはじめました。続編だからですが、さらに、森鴎外の『大鹽塩平八郎』や、入手した古文書を参考にして、大塩平八郎の乱がその時代の中でどのやうに受けとめられてゐたのか、もう少し調べてみたいと思ひます。

 

ところで、昨日は、成田山に行つてきましたが、その手前に京成本線の宗吾参道といふ駅があります。いつもはただ通り過ぎるだけで、訪ねたこともまだないんですが、今回はちよいと心にひつかかりました。義民伝承の筆頭と言つても過言ではありません佐倉惣五郎を祀る“宗吾霊堂”があるんです。佐倉惣五郎は、公津(こうづ)村の名主で、「正保二年(一六四五年)、領主堀田氏の過酷な税制を幕府に直訴したが、願いは聞かれず越訴(おっそ)を企てた罪で死罪となつた」といふ人物です。

その、越訴や直訴、はたまた暴動や打ちこはしは、言葉としては知つてゐましたが、調べたら、江戸時代の二六〇年間に、三三〇〇回、一年に一二回強の割で勃発してゐたんです。にもかかはらず、あまり知られてゐないのは、文学や芝居に取り上げられなかつたからでもありますが、その底流には、百姓が立ち向かつてくることを極度に恐れた支配層が、厳しく情報を規制したからなんです。佐倉惣五郎が、歌舞伎(「東山桜荘子」)にのせられたのはきはめて稀だつたやうで、その反面、洒落本や滑稽本では百姓は軽蔑の的のやうな描かれ方がなされてゐます。『貧農史観を見直す』といふ本も出されてゐますが、特に飢饉に襲はれた際の支配層の無能さ、無慈悲さを無視はできないとぼくは思ふのであります。知りませんでしたが、齋藤隆介の『ベロ出しチヨンマ』は、佐倉惣五郎の逸話をもとにした創作なんですね。

 

今日の写真:大塩平八郎と佐倉惣五郎の画像。