二月廿六日(水)戊辰(旧正月廿七日) 晴れ、暖かい 

夕べ、妻に、「成田山で、梅まつりをやつてゐるやうだから、お母さんと一緒に行つてきたら」と尻を叩かれました。寝てばかりゐないで、といふことのやうです。成田山といへば、昨年二月一日に、母と出かけて鰻を食べたのですが、それは、その前の日、テレビで鰻の店を紹介してゐたので、それで誘はれて出かけたのでした。

でも、今年は、梅祭りです。母も梅を見に行くのだつたらいいはね、と言ふので、今朝、十時過ぎに家を出ました。堀切菖蒲園駅で乗り、高砂駅で特急に乗り換へ、成田駅にはちやうどお昼でした。けれども、おそい朝食だつたので、見て回つてきてから食事にすることにして、参道を通り抜け、正門から入つて、梅園のある本堂の裏側になる成田山公園に向かひました。人出はそれほど多くはありません。公園内は常緑樹が繁り、少し陰つた道でしたけれど、おどろいたのは、何のためかはわかりませんけれど、石碑が乱立してゐるのです。そばによると危ないといふ立て札まで立つてゐます。それもほとんどが薄い板碑ですから、たしかに地震でもくればペタンと倒れてもおかしくありません。

しかし、途中で、母がもういいよと言ひだしたのです。梅園は思つたより奥まつたところにあるやうなのでやめて、ベンチで休み、引き返すその時に目に入つてきたのが、《鈴木三重吉文学碑》です。「青年時代、この地の成田中学校で英語教師として教鞭を執るかたわら、代表作『小鳥の巣』を書き、作家としての地歩を固めた。この碑はそのゆかりによる。平成六年六月」とありました。

また、いつもとは別の石段を下つて来たところ、そこに、《二宮尊徳翁開眼の地》碑を見つけてしまひました。こんなところで二宮尊徳さんにお会ひするとは思ひもかけませんでした。「代表的日本人の一人、二宮尊徳翁(一七八七~一八五六)は、不出世の才と堅忍不抜の行いとをもって小田原藩主大久保忠眞候に抜擢され野州桜町(栃木県二宮町)の復興に一身をささげた。内外の妨害に進退きわまり行方不明数十日の後、『禍を転じて福となし』にはじまる七大誓願を胸に成田山に参籠、断食水行二十一日、霊験感応あり、心願開けて大悟した、ここぞ誠に二宮哲学開眼の地である」。いやあ、知つてみるもんですね。さういへば、「日光街道を歩く」旅の時(二〇一二年十一月十六日)に訪ねた“石那田堤”(宇都宮市石那田町)、尊徳さんの指導と監督のもとで設けられのです(一八五二年)。例の二宮金次郎の銅像もありましたつけ!

 感心しながら歩き、鰻屋に入りました。そして、注文してから母に、「ぼくは、神社やお寺に行つても手を合はせたり、祈つたことがないけれど、お母さんお父さんはどうだつたの?」と、胸の奥深く仕舞ひこんでゐた疑問を口にしてみたんです。すると、母は、「わたしなんか、氷川神社に行つた事がないはね」。つまり、神社にお参りしたことがないといふのです。父も祖父も出かけ記憶がないといふし、ましてや強制されたことはなかつたやうなのです。我が家はどうも、不信心の家系(?)のやうなんです。 

 

ぼくは、思ひました。幼いころから、仏壇や神棚を前にして祈るといふことを躾けられず、あるいは習慣づけられてこなかつたといふことは、これは取り返しのつかないことで、自分ではどうしやうもないんですね。祈るといふことがわからなかつたと言つていいでせう。そもそも、父母の祈る姿を見た記憶がありません。だから、お寺や神社で手を合はせないで平然としてゐられたのです。今もさうですけれど・・。

ただ、他の人が祈る姿には、ぼくは、羨ましいといへば言ひ過ぎですが、人としてとるべき自然なあり方であり、いやそれ以上にその切実さを背後に感じます。祈り、そしてそれを聴いてくださるかたがをられると信じられるといふのは、たしかに救ひなんだらうなと思ふからです。求めるものがあるからこその、行為だといへると思ひます。

だからといつて、ぼくは、ただ手を合はせ、真似すればいいものではないとどこかで感じてゐました。そして、自分にとつて、切実な思ひをぶつけることのできる、そして眞實受け止めてくれる実在者はなんであるのか、決して求めたわけではないのですが、ぼくが出会つたのは、イエス・キリストでした。「中村さん、これを持つて、教会へ行きなさい」と、中学生の時、担任の女性数学教師から突然言はれて(その時ぼくは同級生の帽子をレンズで焦がして怒られてゐたのでした!)、ぼくは、何の疑ひもなく、「はい!」と、分厚い聖書を受け取り、その先生も会員であつた、小さな教会へ通ひはじめたのです。

このやうに、ぼくは、何かを求め、救はれたいから信仰に入つたのではなく、ただ与へられ、出会つたから、素朴に受けとめたとしかいへないんです。これをお導きといふんでせうか? そして、通ひはじめてから、ぼくは、自分が何を求めるべきかをまつたく知らなかつたことに気が付きました。だつて、みな熱心に祈つてゐるけれど、何を求めて祈つてゐるのか不思議でなりませんでした。ですから、ぼくにとつてのキリスト信仰といふものは、まづはじめに、祈ること、何に対して、何を、どのやうに祈るかの修練の場であつたと言つてもいいと思ふのです。

いや、とんでもないことを口にしてしまひました。まづいですね、この話はまたの機会にしたいと思ひます。はい。鰻はおいしかつたですよ、念のため。

 

それにしても、知つてゐましたか。成田山新勝寺の縁起(由来)です。あのヒーロー、平将門を誅殺するために建てられたことを。ちよつと長いんですが、記します。「朱雀天皇の天慶二年(九三九年)、平将門関東の地に叛し、下総国猿島郡岩井郷に城砦を築いて皇居に擬(なぞ)らえ、自ら僭して親皇と号し帝都を傾け位を簒わんとす。天皇大いに逆鱗し給い、直ちに討伐の帥を出さるると共に、広沢遍照寺の寛朝僧正に天国の宝剣を授け、朝敵降伏の護摩奉修の密勅を下し給うた。僧正大命を畏み、京都高雄山神護国祚真言寺奉安の不動尊像と恩賜の宝剣とを捧持して海路遥かに東国に下り、上総国尾垂浜より上陸、更に進んで公津(いまの成田市内)に地を選み、此処に尊像を安置して三七日間朝敵降伏の祈祷を修す。霊験顕著にして兇敵忽ち退敗し、恰も護摩結願の天慶三年二月一四日将門誅に伏す。」(大野政治著『成田山新勝寺』崙書房 ふるさと文庫 より引用)

境内に、巨大な宝剣が建てられてゐる理由がわかりました。朝敵を討つ宝剣なんです。鰻はおいしいけれど、ぼくはなんだか違和感があつたんですよね。まさか、大手町の《将門の首塚》に参つた人が、成田山にも来てお参りしてないでせうね。このくらいはけじめをつけたいものです。

帰りは、母とは京成八幡駅でわかれ、ぼくは例の山本書店を訪ねました。今回の収穫は、『小島日記1・2』です。現在の町田市小野路村の小島家で記された「日記」です。天保七、八年、ちやうど、大塩平八郎の乱のことが、詳しく記録されてゐるんです。ラッキー!

 

今日の写真:成田山新勝寺界隈。《鈴木三重吉文学碑》。《二宮尊徳翁開眼の地》碑。石那田堤の二宮金次郎像。