二月廿三日(日)乙丑(旧正月廿四日・下弦) 曇りのち晴れ、寒い 

妻が朝からお出かけしたので、のびのびと読書をさせていただきました。いへ、図書館から届いた本ではなく、先日手に入れた『うかひ』と記された和本です。薄つぺらで虫食ひだらけ、汚れてゐるんだか地の色なんだかわからないやうな表紙をした本なんです。「うかひ」を見て、謡曲の『鵜飼』だなといふことはわかりました。ところが、この和本、珍しく奥書に発行年があつたんです。「于時正徳三癸巳猛春吉辰 寺町通松原上町 今井七郎兵衛新刊」。つまり、一七一三年の印刷といふことです。本物ならうれしいですね。おそらく、ぼくが所有する本の中で、一番古い印刷本だと思ひます。しかも、たつた二百円!

これがまたけつこう読めるんです。どうしてもわからない文字や虫食ひ部分は、『観世流謡曲百番集』(檜書店、昭和四十四年発行)のお世話になりながら読み通してしまひました。慣れると、かうもすらすら読めるものかとさらにうれしくなります。もう、くやしいくらゐ何べんもつまづいてきた文字がだんだん少なくなつてくるといふ感じです。でも、仮名がほとんどだから読めるんですけれどね。

「謡(うたひ)」、「謡曲」、といへば、義父・椎野駒吉を思ひ出します。一九九六年九月十一日、堀切の入院先から、義母とともに直接自動車で伊豆の家にお迎へしたんです。病院では、あと数か月、半年はもたないでせう、と宣告され、自宅に帰るなら今しかありませんといはれた結果、妻と二人で決めたのでした。しかし、義父は宣告に逆らつて、四年と少し生きながらへました。亡くなつたのは、二〇〇〇年十二月十九日。借りてゐた民家の大きな部屋のベッドの上で、義母と妻とぼくと三人で見送りました。九十四歳と十一か月でした。その七年後の二〇〇七年十二月二十五日に義母・静子も同じこの家で息を引き取りました。九十一歳でした。定期的に診てくださり、いざといふときに快く往診してくださつた飯島先生には有り難かつたです。そして、この間の妻の努力は並大抵のことではありませんでした。ぼくは、どれだけ協力してあげられたか、葛飾に戻つてこんどはぼくの父の最期を看取つてくれたことを思ふと、感謝してもしきれないものがあります。

ところで、「謡」のことですけれども、義父はそれまで七十年ものあひだ、謡の仲間とともに楽しんできたさうです。それが、唯一の楽しみであり、趣味だつたんではないかと思ひます。ですから、伊豆の生活でも、時たま唸つてゐました。謡曲の本がわずかに収まつた、小さな本棚をかねた文机だけが義父の荷物のすべてでした。

しかし、ぼくは、自分の世界に没頭してゐて、まともに話をしたことがなかつたのです。今思へば、謡のことを聞いておけばよかつたと思はざるを得ません。残念です、といふか、叔母のことにしろ、人から話を聞くといふ謙虚さがなかつたことを痛感します。まあ、今でもさうですけれど、ぼくの反省しなければならんところです。

又、義父は俳句もやり、ぼくに遺してくれたくれた句が二つあります(六月卅日の作)

“毛倉野や 夏うぐいすのほしいまま” (毛倉野や 夏の鶯ほしいまま)

“梅雨さなか 琵琶の熟るるにまかせたり”(梅雨しとど 琵琶の熟るに委せたり)

どつちか選んでほしいと、それぞれ二句出されたんですけれど、ぼくは上の“・・”のはうが口調がいいんではないかと思ひましたが、はつきりとお伝へしたかどうか記憶に定かではありません。「毛倉野(けぐらの)」とは、住んでゐた地名です。

あ、さうだ、今日はぼくの六十七歳の誕生日でした。でもいつもと変はらぬ一日でした。

 

今日の写真:義父の散歩とラム。昨晩のラムと、今日の北向き地蔵にて。「謡」本、『うかひ』。