二月十九日(水)辛酉(旧正月廿日・雨水) 晴れ、寒い 

昨日に続いて、『歴史紀行二十四 中仙道を歩く十二』のワード版原稿を、パワーポイント版への編集作業をいたしました。まるで、再度街道を歩いてゐるやうな感覚です。

ところで、先日、『ソロー語録』から、「問題は、旅人がどこへ行ったかではない。彼がどこを見たかでもない。問題は、彼がどんな本物の経験をしたかが重要なのだ。」を引用して、「本物の経験」こそ肝心なのだといふことを言ひました。このことは、ぼくは強調してもしきれないものがあると思つてゐます。

ただ、どういふことが「本物の経験」なのかといふと、難しいですね。ぼくが思ふには、それは、すなはち、ぼくたちが感動し、新たなる自分を発見するやうな出会ひのことではないでせうか。或は、その物事、事物に出会つた時に、心が動かされ、価値観が揺すぶられて、時には青空を見上げるやうな広々とした心と生きる喜びや力や希望を与へられるやうな経験をすることではないでせうか。ちよつと大風呂敷を広げすぎた感じですが・・。

そして、それは、決してどこか素晴らしいところへ旅行しなければ得られないといふものではありません。ソローは、続けて、「それはちょうど、家にいるとしたら、どのように生活し、どのように家で振る舞うかが重要であるのと同じである。」と結んでゐます。つまり、ソローにとつては、むしろ日常生活においてこそ、「本物の経験」が起きてゐるところであることを前提にして言つてゐるんです。

ぼくの言葉で言はせてもらへば、それは、ありふれた日常の生活の中で、目に見える物、手で触れる物、耳で聞く物、身体で感じる物、もちろん食べることをも本当に経験してゐるかといふことなんです。このやうに、かけがへのない日々のささいな経験こそ、「本物の経験」を得る土台なのだとぼくは思ふのです。きつと、ソローもうなづいてくれると思ひます。

間違へていけないのは、かけがへのない日常を上の空で生きてゐて、どこで「本物の経験」を得ることができるのかといふことなんです。「本物の経験」を得るチャンネルの無い者が、いくらパリだロンドンだといつたところで、せいぜい、ルーブル美術館に、大英博物館に行つて来たのと言つて自慢するくらゐのものなんです。

それにしても、現在の旅行ブームは、あそこに行つてきた、何々を見てきたなんてことばかりが囃し立てられてゐます。海外旅行を一度しかしたことのないぼくが言ふのは、僻みに聞こえるかも知れませんが、そんなことはどうでもいいことだとぼくは言ひたいのです。大切なことは、日々の生活を、常に新たな眼差しで見られるか、そして新鮮な経験ができるか、そして、先人の遺してくれた歴史を学び、「古典」を読むことによつて、現実の社会を変へることのできる思想を養へるかといふことではないでせうか。

飼ひならされてはいかんのです。作られた玩具をあてがはれて面白がつてゐるばかりではいけないのであります。そして、知らないあひだに回りの世界が変はつてゐたなんて、そんな他人ごとのやうなことを決して言つてはならんのです。はい。あツ、久々に熱くなつてしまひました。ごめんなさい。

『歴史紀行二十四 中仙道を歩く十二』のパワーポイント版ができたので、これからお送りしたいと思ひます。これによつて、「本物の経験」を、いや期待しないでくださいませ。

 

今日の写真・・けふのラム。崩落した駐車場の屋根片付く。