二月十八日(火)庚申(旧正月十九日) 晴れ、風が冷たい      

昨夜、書き進んできた『歴史紀行二十四 中仙道を歩く十二』の原稿がやつと仕上がり、待ちに待つてゐる(と思ひたい?)、多くの友人知人にメール添付で送ることができ、ほつとしました。そして、「ひげ日記」も書き終へて寝ようとしたとたん、妻が飛び込んできて、「救急車よ!」と言ふのであります。

カーテンを開けると、まさしく救急車です。赤色灯を点滅させて、家の前の道路に停まつてゐるではありませんか。それにしては、忍者のやうに静かな振る舞ひです。

それは忘れもしない、二〇一二年一月二日の晩のことであります。その前の年、といつても数日前のことですが、十二月二十九日から出かけてゐた、『歴史紀行六 平安京編二』の取材旅行から帰宅したその夜のこと、父が四十度もの熱を出し、仕方なく救急車を呼んだのであります。

するとすぐやつてきました。サイレンこそ鳴りませんでしたけれど、なんとそれが大きな消防車だつたのです。救急車の場合なら、近所の人も、まあ遠慮して窓から覗くていどでせうが、なにせ消防車です。みなさん出てきましたよ! また消防士のかたも親切で、「今、実は、救急車が出払つてゐて、浅草のはうから来てもれへるやうに手配しましたからお待ちください」といふのであります。とりあへず来てくれたといふ感じです。

 もちろん、救急隊員も一緒でしたので、診てくださいました。それも、三、四人が家の中まで入つてきて、父の容体を確認し、救急車を待つことになりました。その時、ぼくは、我が家の八畳間がこんなに狭いのかと思ひました。座敷は座してこそ広々とした空間を楽しめるわけですが、いはば重装備した隊員たちの方々が占めるた座敷はもう戦場のやうなのであります。

とかくして、救急車によつて、父は、亀有にある掛かりつけの東部地域病院に入院することができました。高熱でしたけれど、投薬によつて熱が下がつてしまへば、いつもの父です。もう、帰りたくて帰りたくて、夜中に看護婦さんから電話で、父が帰ると言つて歩き回つてゐるから、来てほしいといふのです。すぐ駆けつけましたけれど、なにせ、病院といふところは、熱がどうして出たのか検査して調べるまでは退院させられないといふのです。

二十日ほどの入院になりました。退院まぢかのころ、担当の佐藤先生が相談にのつてくださつておつしやられるのには、これからは訪問医療の手をかりたらどうでせうか、と提案してくださつたのです。そして、その医師を呼んで、父のカルテを提供するから診てほしいといはれたのです。ぼくは、佐藤先生の言動のはしはしに、何だか感動してしまひました。

 たしかに、訪問医療の医師もぼくは偉いと思ひました。父のことについて、時々連絡してくださつてゐたのです。そして、いよいよ父が食べ物を受けつけなくなり、さいごは水分を摂ることもしなくなつた時に、「そのままでいいです、体が受けつけなくなつたのだから、無理に食べさせ飲ませなくてもいいですよ」と言つてくださり、ぼくは、心から、かういふお医者さんもをられるのだと感謝しました。その結果、父は、同じ年の九月九日、九十五歳と九か月の生涯を、自分の家で、母の隣で、健康な死を迎へることができたのです。

佐藤先生に、父が死んだことを伝へに伺つたら、先生、すでに訪問医療の医師から聞いてゐましたといふのです。そして、「医者のぼくが言ふのもおかしいけれど、お父さん、うらやましいやうな亡くなられ方でしたね」、と言つてくれたんです。泣けちやいました。ありがたうございました、としか言へませんでした。

最近では、救急車も気を使つて、近くに来た時にはサイレンを控へてくれるやうになりました。しかし、だからといつて、救急医療の働きのおかげで多くの人命が救はれてゐることまでも忘れてはならないと思ふのです。ぼくなんか、救急車が呼ばれるやうな事態になつたら、即絶命でせうけれど、生かされてゐるうちは、決して弱音をはいてはいかんと自分を叱咤してゐるのではありますが、それでもたまには、ぢやあない、しょっちゅうぶつぶつ言つてすみません。

 *尚、ご希望の方には、『アルバム 中村勝太郎卒傳』(父の葬儀の際の遺族代表挨拶文+父の写真集)をお送りします。ただし、パワーポイント文書です。メールに添付して送ります。

 

今日の写真・・昨晩の救急車。東部地域病院に入院中の父。葬儀の遺影。亡くなる四日前の父。