二月五日(水)丁未(旧正月六日) 快晴、北風強く寒い 

昨日の、心臓手術前後の頃の回想になりますが、静岡県立中央病院入院時の写真が一枚もないことには、いささか驚くやら、残念でしかたありません。なぜ撮らなかつたのだらうかと、実に悔しいです。

でも、断片的に、病気とたたかつてゐた人たちの顔は浮かんできます。強烈だつたのは、二人部屋で一緒だつた佐藤さん。糖尿病を悪化させ、目がほとんど見えなくなつてきてゐるにもかかはらず、売店に行つて食べ物を買ひ、売店で拒否されるとそれでもどこからか手に入れてきて食べるんです。看護婦さんは、ぼくに、佐藤さんが何か食べようとしたら教へてねと言ふんですけれど、ぼくはほんとうに困つてしまひました。自分の病気とたたかふよりもつとむつかしいことのやうに思ひました。

それと、林のおぢいちやんを思ひ出します。入退院を繰り返してゐたおぢいちやんで、そのたびにぼくと同じ部屋にしてほしいと求めてゐたんです。貴乃花が大好きで、よく一緒にテレビ観戦をしました。林さんは、もと国鉄の蒸気機関車の運転手で、思ひ出話をたくさん聞くことができました。そのおぢいちゃんが、ぼくが退院後、見舞ひに行つたら亡くなつてゐたんです。すぐその足で、向敷地の自宅を訪ねました。その奥さんのおばあちやんが、またまるで江戸つ子のやうに歯切れのいい方で、ぼくたちは、涙を流しながら思ひ出話に花を咲かせました。

さうさう、忘れてはならないのは、柳原の野郎です。ぼくを殺したんです。いへね、ぼくは、主治医の服部先生の紹介で、また、以前入院と通院をしてゐたこともあつたので、東京慈恵大学病院で手術をしました。中央病院は九月十日に退院し、翌年の一月十七日に大動脈弁置換手術をしたんです。それで、手術後、(ぼくが入院中の五月に、女子高の同僚らの協力で、高橋から引つ越してきた)清水市駒越の県営団地に住んでゐましたが、そこに看護婦の山田峰子さんから電話がかかつてきたのです。美知子が出たら、峰子さん、こはごはと、「お元気?」と聞くので、すかさず美知子が、「元気よ。淳ちやんに代はるはね」と言つたとたん、峰子さんビックリしたといふのです。それで話をよく聞くと、ぼくは、順天堂病院で手術を受けて、手術に失敗して死んだんださうです。さういふ情報が中央病院に流れたので、それで峰子さんが代表してお見舞ひの電話をくださつたといふわけなんです。先生も、なんで違ふ病院で手術したのか不思議がつてゐましたが、その噂を流した犯人があとでわかつたのです。それが同じ五西病棟にゐた柳原の野郎だつたのです。なんだか、やきもちを焼かれたやうなんですが、いや、自分の病気に気が滅入つてゐたんでせう。考へたら気の毒な人でした。

ところで、入院してゐた、この一九七六年には、四月九日に武者小路実篤が九十歳で亡くなり、五月二十六日には、マルチン・ハイデッガーが西独フライブルクで八十六歳で、七月四日には、キリスト教史の石原謙が順天堂病院にて九十三歳で、そして七月三十日にはルドルフ・ブルトマンが九十二歳で亡くなつてゐます。そして、十月十八日には森有正がパリの病院で亡くなつてゐるのです。六十四歳でした。今のぼくより若かつたんですね。学生時代から、『バビロンの流れのほとりにて』などにどれだけ励まされ助けられたか計り知れません。改めて、その思想の力、言葉の力には敬服するとともに、感謝に絶えません。「巨星墜つ」年だつたんですね。

晴天なのに寒い一日でした。日記を拾ひ読みしながら日記を書いてゐました。それと、なだいなだの『江戸狂歌』を一気に読みました。目からうろこが何枚も落ちました。

今日の写真:昨日の雪がわづかに残る向ひの家の屋根。それと、けふのラム。