十二月二十四日(火)甲子(旧十一月二十二日) 快晴

 朝食後、近くの歯科医院に行き、定期クリーニングをしていただきました。これには、ぼくは、毎回ですが、前の日から紙に書いて机の上に置いておくのです。なぜかならば、いちど忘れたことがあり、電話をうけても何かなといふくらゐに念頭から消えてゐたのです。いつもの女性歯科衛生士の方になんど頭をさげたことだらう。今でも、冷や汗が出ます!

 ぼくは、まだ、山暮しの夢を捨てきれないでゐるのだけれども、ただひとつ、東京葛飾に帰つてきてよかつたと思ふことがあります。それが歯医者さんです。しかも、この歯医者さん、ぼくが、小学校のときの校医だつた先生のお孫さんだつたのです。具合が悪くなつた時でも、電話をすれば、「すぐ来てください」との返事です。いつも、これで救はれてゐます。

 

 「中仙道を歩く」、今日は、板鼻宿の旅籠に置かれた飯盛女について、『安中宿本陣文書』を引用しながら書きました。いくら宿場の繁栄のためだから、旅人を引き留めるためにとはいへ、五、六歳の娘たちが「牛馬のごとく」買はれてきて、過労と性病の末、廃人となつて平均二十五歳ほどで生涯を終へてゐたのだと思ふと、書いてゐて、ため息が何度も出てしまひました。これが歴史なんですね。「あんたらはどのやうに生きてゐるの?」、とこの娘に問はれたとしたら、なんと応へられるだらうか・・?

 まあ、あれこれ思ひながらも、さう、明日は心臓外科の定例の通院日なのでした。はたして、エコー検査の結果がどのやうに出たのか、先生に何て言はれるのか、気が弱いぼくには、それだけでプレッシャーなんです。「検査室」と「化粧の匂ひ」と「腿のふとき」の影響が出てゐないことを祈るばかりです。

 

 また、母の冒険談を書かなくてはなりません。いつもより早く家を出たことは知つてゐましたが、夕食がはじまる時間になつても帰つて来ません。そのうち電話があり、「今、葛飾警察署のそばだから、もうすぐ帰ります」とのこと。たしかにすぐ帰つてきましたから、一緒に食事をしました。ところが、その話をきいてビックリ!

 まづ、家の近くからバスで綾瀬駅へ行き、千代田線に乗つて町屋駅下車。そこから都電荒川線で庚申塚駅下車。地蔵通り商店街は、「四の日」は出店も出て賑やか、巣鴨駅まで楽しんださうです。そこからがまた驚きなんですが、バスで浅草に出たといふんです。ぼくも知らない路線です。それどころか、浅草から、こんどはやはりバスで、錦糸町駅。そこからさらに、青砥車庫行のバスに乗り継いで、水戸街道と平和橋通りが交差する葛飾警察署前で下車したところからの電話だつたのです。もちろん一人で、無料パスを駆使して、あれこれ路線を考へてといふのですから、もう、ひゃーと言ふしかありません。

母のえらいところは、他の人とつるまないことです。一人で計画して、一人で実行、一人で楽しんでゐることです。この血をぼくも引き継いだのかも知れません。

それにしても、地蔵通りで、ぼくの大好物の干し柿をおみやげに買つてきてくれるなんて、これを何と言つたらいひのでせうか! ありがたう、としか言へませんです。あ、さうだ、今日はクリスマスイヴでした。なんといふ親不孝! 自戒して、もうはやく寝ます。

 

今日の写真:木曽海道 六拾九次之内 板鼻宿(英泉画)。今年の八月、母九十歳の誕生日。それと母自筆の年賀状。けふのラム。