十二月二十三日(月)癸亥(旧十一月二十一日) 晴れのち曇り

 今日は起きなければと気持ちを奮ひ起こし、午前中は机に向かひました。重たい本なので横になつては読めない、いや、持つことができないからなんですが、『安中宿本陣文書』の「茶汲女」の項目を読みました。茶汲女とは飯盛女(娼妓、遊女)のことです。執筆中の「中仙道を歩く」板鼻宿に関しての調べものです。板鼻宿には旅籠五十四軒、安中宿は十七軒で、圧倒的に板鼻宿のはうが多いのですが、旅籠に飯盛女を要求したその根は同じとみてよいと思ひますので、その要求内容を調べました。宿場の責任者でもある「年寄」がお上に提出した文書は、要するに、いろいろと理由をつけてゐますが、財政困難につき、飯盛女を置くことを許可してほしいといふ要求なんですね。旅人を引き込む手として求めたわけです。

 これは、第一級の史料の語ることです。そこからは、何か、変はらぬ人間の欲といふか、立場や利権を守るためにはなりふりかまはない性(さが)、業(ごう)とでもいつたものを感じてなりません。そもそも、誰かの犠牲のうへに成り立つた繁栄やら幸せつて何なんでせう! 一人でも不幸な人がこの世にゐるならば、自分は幸せにはならない、と言つた方は誰でしたでせうか?

 昼からは、例によつて横になり、今日から『寺子屋式 古文書手習い』を読み始めました。いやいや、初つ端からいい言葉ですよ。「網の目 正しからざれば 魚のがすこと おほし」。明治十五年出版の小学読本の言葉です。「水は方円の器に従ふ」といふ内容の言葉もありました。考へさせられますね。網の目を正しく丈夫に編んでこなかつた自分の人生を、どうなんだと指さされる思ひがいたしました。これにめげずに読み進んでいきたいと思ひます。

 ところで、けふは天皇誕生日なんですね。印象的だつたのは、ご自身の「一問一答」の中の言葉です。「天皇という立場にあることは孤独とも思えるものですが」、と美智子さんの存在の大きいことを感謝の気持ちを込めて語られてゐました。

 そもそも、天皇の存在を無視して日本の歴史を語ることはできません。先日など、『古文書入門叢書7 明治以前天皇文書の読み方・調べ方』なんぞの古本を手に入れて、わくわくしてゐるところなんです。けれども、それがどういふ存在として意味があつたのかといふことになれば、ぼくにも語ることが許されるかも知れません。もちろん、語れませんが、代弁者を用意しました。一人は坂口安吾です。その『續墮落論』に言ひ尽くされてゐます。もうひとつは、かの伊藤博文がベルツに漏らしたといふ言葉です(『ベルツの日記』)。おいたはしいといへば、不比等が天皇制をつくつたときからおいたはしく、かつ孤独な存在であることを宿命づけられてきたんですね。謎もまた多く秘められてゐると思ひます。

 

 今日の写真:武田信玄から三原衆あての朱印状。神保町秋の古本まつり。けふのお嬢、毎日同じやうに寝てゐます。